ピアニスト令嬢とホテル王の御曹司の溺愛協奏曲
「やっぱり、あれなのかな……」

 控え室のテーブルに突っ伏して、私は低い呻き声を漏らす。
 自分がそうだと信じたくなくて頭の中から可能性を追い払っていたけれど、こんな現象に陥る理由に心当たりが無いわけではない。
 音楽の世界に長く身を置く中で、私はこういう症状に冒されたピアニストについての話を何度か見聞きしたことがある。

 ――職業性ジストニア。俗に言う、イップス。

 これまで何度も繰り返してきた自分にとっては簡単なはずの動作が突然出来なくなってしまうという、悪夢のような病気だ。
 野球選手やプロゴルファーなどスポーツ選手の話をよく聞くかもしれないが、ギタリストやピアニストなどの音楽家にもその症状は発現する。
 割と知られた病気であるというのに、明確な原因も分からなければ治療法も確立されていないというところが非常にたちが悪い。

 全身性ジストニアと違って日常的に体が引きつってしまうということはないので、日常生活を送る分にはさしたる支障は出ない。特定の動作をしたとき、小さな部位にだけ症状が現れる。
 だが、それが致命的なのだ。人生をかけて取り組んできたピアノでさえ、こんなにも呆気なく弾けなくなってしまうのだから。

「特定の場合だけって言ったって、それがピアノを弾くときの指の異常だなんて! 指はピアニストの命だというのに! ああもう、本当に何で今発症してしまったのよ……」

 よりにもよって、人生で一度きりの私の夢の舞台で。
 もう少し早く分かれば症状と上手く付き合いながら弾く術を試行錯誤できたかもしれないし、もっと遅く発症したならばそれはそれで時間に余裕を持って治療にあたれただろう。
 いずれにせよ、このコンクールがこんなに苦しくて無残な終わり方になることはなかったはずだ。

「最悪……死にたいくらい最悪……」

 絶望感と虚無感で理性を失った私は、あまりのふがいなさに身も世もなく慟哭する。
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