ピアニスト令嬢とホテル王の御曹司の溺愛協奏曲
 それから、どれだけの時間が経ったのだろう。
 思いっきり泣いて少し冷静さを取り戻した私がぐっと目元を拭っていると、不意に控え室の扉がノックされた。

「ミズ・イチジョウ、お手紙をお預かりしているのですが今よろしいですか?」

 扉越しに英語で話しかけてきた女性は、このコンクールの運営スタッフの一人だ。
 私の演奏に感銘を受けたと一次審査が終わった後に話しかけてきてくれて、それ以来会えば会話をする仲になっていた。だから、声だけで判断することが出来る。

「少し待ってくださいね。……よし、入っていただいて大丈夫です」

 大泣きしたせいでボロボロの顔なので、何事もなかったように取り繕うのは難しい。出来ることならば、人様に見せられる程度になるまで立て直す時間がほしいところだ。
 しかし、私の目が真っ赤だとか化粧が崩れていて恥ずかしいだとかいう極めて個人的な事情で、手紙を届けるという彼女の正当なる業務を阻害するわけにはいかない。
 せめて涙くらいは綺麗にハンカチに吸い取って、なるべく背筋をしゃんと伸ばして彼女に入室の許可を与えた。

「失礼します。こちら、ミスター・オコナーという方よりお預かりしたものなのですが……お知り合いでしょうか? この名前を出せば分かってもらえるとおっしゃっていました」

 私の姿を見た瞬間に、泣いたことなど丸わかりだっただろう。
 しかし、そこはプロだ。何も触れることなく、いつも通りの穏やかな笑顔で一通の手紙を差し出してくる。

「はい、旧知の知人です。その名前でこのレターセットを使っているならば、間違いなく……」

 薔薇の透かし模様の入った美しい封筒に目を落とし、私は静かにうなずく。

「それなら良かったです。では、私はこれで失礼しますね」

 どこまでもプロ意識の高い彼女は、今はなるべくそっとしておいてほしいという私の願いを察してくれたようで、手紙を渡すとすぐに退室していった。
 再び静寂を取り戻した部屋の中で、私は手の中に残された手紙をじっと見つめる。

 薔薇の透かし模様が入った、高級な封筒と便箋。
 それはピアニスト・一条六花にとって、大切な人物からの手紙であることを意味していた。
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