冷徹ホテル王との政略結婚は溺愛のはじまりでした
「真宮、店を辞めるんですか?」
「ああ、二度と顔も見たくないってよ。繁忙期だってのに、迷惑な奴だ。腕があるから雇ってやったのに、レシピを“借りた”くらいでうるさいよな」
退職届を提出しに行った日に、閉まった扉の向こうから宇一さんとバイトの会話が聞こえてきた。
「昔は細身で可愛かったのに、甘いものが好きだからってどんどん太って、もう隣を歩くのも勘弁だよ」
「たしかに、アレが彼女はキツいっすね」
「彼女? 冗談はやめてくれ。家が金持ちって聞いたから、ちょっと遊んでやっただけだろ」
この最低男! と顔面にケーキをお見舞いしてやりたい衝動に駆られる。
悔しい。私が考案したレシピだという証拠はなにひとつ手元にない。
都内一等地に店を構える数々の賞を取ったシェフパティシエと、三年働いただけのパティシエールの、どちらが信用されるか、考えなくてもわかる。
わざと聞こえるように悪口を言った彼らに反論も出来ずに店を後にしたとき、アンジュの磨き抜かれたガラスの壁に、醜く太った自分が映った。