私をみつけて離さないで
2.真さんに誘われて
サークルのおかげで楽しキャンパスライフを──とは、ならなかった。
そもそもテニスすら初心者の私は完全なる足手まとい、主に見学する事になる。
なにより岩崎先輩に会えることを期待していたのに、その姿はまったく見なかった。サークルはもちろん、構内でも──学部も違うから当然か。先輩は経済学部、私は文学部だ。
なんか、ちょっと、期待外れだ。ううん、私は勉強一筋でやってきたじゃない、それはまだまだ続くんだ!
☆
そうして大型連休も終えたある日の夕方、大学内の図書館でようやくその姿を見つけた。
(わ。かっこいい……)
分厚い本を三冊も机に置いて書き物をしている岩崎先輩を見つけた。その真剣な横顔に見とれてしまう。
(声かけたいけど……邪魔しちゃ悪いよね)
でももうちょっとだけ、その姿を焼き付けたいなあ、なんて見つめてしまった時。
不意に顔を上げた岩崎先輩はしっかりこちらを見ていて、目がばっちり合ってしまった。
(げげっ!)
慌てて目を反らそうとした、でも岩崎先輩の笑顔にまたもや釘付けになる。
「こんにちは」
言われて私も小さな声で「こんにちは」と返した。
それで離れようとしたんだけど、岩崎先輩がおいでおいでと言うように手を振る、私はおずおずと近づいた。
「香織さん」
確認するように呼ばれた、どきっとしてしまう。
「はい、お久しぶりです、あのお勉強ですか?」
私は動揺を隠したくて、すぐに言った。
「うん、卒論の資料集め」
「あ、そうですよね……」
そっか。四年生だもんな、もう卒業なんだ……。せっかく出会えたのに、1年もせずにお別れすることになるのか。
「香織さん」
意識が飛んでいたのを、呼び戻された。
「はい」
「香織さんも勉強?」
「いえ、なんか時間つぶしになりそうな本はないかと思って……」
「本、好きなんだ?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
引っ越ししてきてまだ二か月ほど、特に親しい友人もいないし、親が勉強に専念しろと言うからバイトも禁止。ひとり暮らしの家に帰っても暇だから、とは言えず。
「まあ……好きですけど……」
岩崎先輩は優しい笑みを浮かべた。こんなイケメンで、こんな風に笑うなんて、本当に卑怯だよね。きっと今までたくさん女を泣かしてきたに違いない。
その時舌打ちが聞こえた、何気なく視線を向けると、女の人が睨んでいた……岩崎先輩のそばにいるな、という意味だと、すぐに判る。先輩も気付いたみたい。
「図書館で賑やかにしたら駄目だね。ちょっと出ようか」
岩崎先輩は、広げていた本を閉じた。
「え、でも、岩崎先輩は卒論が……」
「まだ期日は全然先だから大丈夫だよ。少し息抜き。あ、この本はそこの書架に戻してくれる?」
いわれて、ずっしり重い1冊の本を受け取る、経済学の本だ、こんなの読んで卒論書くんだ、私はタイトルを読んでも意味が理解できない。
そして連れ出してくれたのは、銀閣寺方面へ行ったところにあるカフェだった。
「少しは京都に慣れた?」
先輩はコーヒーをブラックで飲んでいた。なんて言うか。カップを傾ける。そんな動作すらかっこいい。
「慣れたのは学校と寮の往復くらいです。観光は、有名なお寺には行きました。しかも土日に。でも人がすごくてゆっくりはできませんでした」
「まあ、有名なところだと平日も込んでるけどね」
そんな気の置けない会話を楽しんだ。
先輩は聞き上手だ、やんわりとした物腰がまたよくて、なんでも話したくなるマジックにかかる。本当にどうでもいいような言葉でも、先輩はふんふん、それで?って聞いてくれるから、たくさんしょうもないことをしゃべったような気がする。
っていうか、私、舞い上がってるわ。夢、見ている感じ。人生初の男性とふたりきりのカフェデートが、こんなにもハイスペックな人だなんて、ありえない!
夕べ見たテレビが面白かったという話をすると、先輩が微笑む、その時だった。
「シン」
呼ばれたのは判ったけれど、誰の事かと思った。先輩は真だから。でも目の前の岩崎先輩が笑顔で顔を上げて、私の背後を見て声を上げる。
「おじいちゃん」
え!? おじいちゃん!?
私は慌ててそちらに目を向けた。和服姿の老人が立って微笑んでいる。おじいちゃん……確かに、少し先輩の面影があるかも。
「珍しいな、女の子と一緒だなんて」
優しい笑顔で言われた。私は恥ずかしくて、座ったまま頭を下げる。
「大学の後輩なんだ」
そう言って紹介してくれた、そうか、後輩、か……わずかに感じた淋しさは押し隠す。
「そうか、シンをよろしくね」
言われて、私は慌てて立ち上がり会釈した。すると岩崎先輩も立ち上がる、え、嘘、一緒に挨拶をしてくれるの?と思ったら違った。
岩崎先輩のおじいちゃんは、数人の背広姿の男性たちと一緒にいた、その人達に挨拶をしていた。その人たちも先輩に声をかけ挨拶し、世間話的な話まで……おじいちゃんの仕事の手伝いをしていると言っていた、だから知り合いなのだと判る。
皆で別れの挨拶をしおじいちゃん達が店の出入り口に向かうと、奥から店員がやってきてドアを開けた。え、カフェでそんな待遇って、まさか……。
「……このお店、岩崎先輩のお宅で経営されているところなんですか?」
言うと、先輩は微笑んだ。
「違うよ、よく利用させてもらってるけど。いきなり身内のお店に誘うのは、僕が嫌だな」
そうなんだ……え、ってことは、この手のお店もやってらっしゃるってことかな。
はあ。
改めて判った、つくづく住む世界が違う人だ。イケメンで大企業のお金持ち。なんでこんな人とお茶してるんだろう?
なんだか急にそわそわしてしまう。
「おじいちゃんがいたのは誤算だったけどね」
誤算、か。知られたくなかったのかな……。
「そんなことないよ」
言われてびっくりした、やだ、私、口に出てた?
「あ、ごめん、気にしないで。ねえ、まだゆっくりできる? よかったら夕飯も一緒に」
言われて何故だか血の気が引いた、だって財閥と言われている一家のイケメンの息子さんに、なんで私、誘われてるの!?
「……いえ……今日は、もう、夕飯の準備もしているし……」
大嘘を、ついてしまった。
「えーいいなあ、香織さんのご飯、食べてみたいな」
「……ええ!?」
それって、それって、プロポーズですよ!?
「あーさすがに今日は無理か。あ、じゃあ、今度の日曜日は空いてる?」
「はい!?」
日曜日!? なんで休日に会う約束なんか……!
「駄目なら、来週でも。ちょうど葵祭で場所取りはしてあるから、一緒に見に行こう」
え? 待って。これは口説かれてるの? いやいや、きっとからかわれているんだ!
「どう?」
う……イケメンは、絶対自分がイケメンなのを自覚してると思う。上目遣いに私をじっと見て……年上のくせに子供みたいな仕草、甘えるような目つき……これを断れる女がいるのか!
「はい、今度の日曜日……大丈夫、です」
私が小さな声で言うと、彼は本当に嬉しそうに破顔した。