この恋は突然に… 〜エリート外交官に見初められて〜
自分の不運続きは嫌になる。
テストを受ければ終了5分前に解答がズレてることに気づいたり、傘を忘れた時に限って大雨が降ったり、鳩の糞は何回頭上に落ちてきたか数えるのを辞めてしまったぐらいだ。
他にもタイミングが悪かったり、ついうっかりをやらかしてしまったりと忘れてしまいたいことなど山のようにあった。
そういえばあの時も不運だった。
が、それが後にこんな事になるなんて思いもしなかった。
友達の春香(はるか)とパリに来ていた瑠璃(るり)はセーヌ川のクルージングを楽しんでいた。
キラキラと光る海と街並みに心を奪われていた。
「本当に綺麗ねー」
春香がデッキから乗り出しがちになりながら言う。
春香の茶色い長い髪が海風に揺られていた。
「そうだねー。来てよかったー」
瑠璃はカクテルグラスを片手に、のんびりと答える。
思い返せばパリに来てから、特に不幸な出来事が起きてなかった。
このまま最後の予定だったクルージングも無事に終わりそう。
そんなことを考えていると、遠くから怒鳴り声が聞こえてきた。
「え?なんだろう…?」
「さぁ…?」
瑠璃と春香は顔を見合せた。
どうやら、スーツ姿の男性がフランス語で怒鳴り散らしていた。
それを宥めるように周りの人達が必死に声をかけていた。
「喧嘩とか?」
「多分…」
そんな話をしていると、怒鳴り散らしいた男性がこちらへ向かってきた。
瑠璃とドンとぶつかり、持っていたシャンパングラスの中のシャンパンがストールにかかってしまった。
「ああ…」
(もう最悪…)
ここに来てから初めて、不幸なことがおきてしまった。
「瑠璃!大丈夫?」
「う、うん…」
瑠璃はストールを肩からかけるのをやめて、手で持った。
「すみません、大丈夫でしたか?」
と、凛とした声で日本語を話す聞こえた。
振り返ると芸能人ばりの美形の男性がスーツを着て、ハンカチをこちらに差し出していた。
(うわ、かっこいい人…)
180センチ近くある身長に、切れ長の目。
整った目鼻立ち、形のいい輪郭、綺麗にカットされた眉。
「あ、はい…大丈夫です」
と答えると、男性はハンカチと小さなメモを渡してきた。
「これ、俺の連絡先です。」
「え!はい」
瑠璃はそっと受け取る。
「何かあったらこちらまで、それでは」
と、足早に去っていった。
「ちょっと〜、なにさっきのイケメンは…って連絡先教えてもらったの?」
「う、うん…」
瑠璃は困ったような顔をして、春香をみた。
「日本帰ったら連絡しちゃいなよー。あんなイケメンとお近ずきになれるかも」
「あはは、そうだね…」
こうして2人はパリを後にした。
「あーやっと帰ってきたー」
日本に帰国し、瑠璃が借りているアパートへ着いた。
「明日からまた仕事かー。よし、頑張るぞ」
なんて言いながらスーツケースを開け、荷物の整頓をしていた。
「これは洗濯して、こっちは明日職場で配るクッキーだから置いておいて…」
などと仕分けているうちに
「あ」
男性の連絡先がかかれた、メモとハンカチが出てきた。
よくハンカチを見てみると、真っ白な布地に有名高級ブランドのロゴが刺繍してあった。
「このハンカチってPINKYCAT(ピンキーキャット)のじゃん。かなりの値段するんじゃ…」
このまま貰っておくのは良くない気がするし、かといってハンカチひとつのためにわざわざ連絡するのもどうかと思った。
「うーん、どうしよう…」
そもそも彼はまだパリにいるかもしれないし、元々パリの人なのかもしれない。
「でも流暢に日本語話してたしなー」
どうしようかと考えているうちに、もう時刻は23時を過ぎようとしていた。
「いけない、明日から仕事なのに」
瑠璃はメモとハンカチをテーブルの上に置き、慌てて他の荷物も片付ける。
浴室へ向かいお風呂の栓を閉めると、お風呂を沸かすスイッチを押した。
そして次の日。
「おはようございまーす」
と、瑠璃は職場の人達に挨拶をした。
瑠璃が務めているのは総員5人ほどの個人病院だ。
そこで医療事務の仕事をしている。
「おはよう、浅田(あさだ)。今日は鳩の糞が落ちてこなかったか?」
真っ先に挨拶をしてくれたのはここの医院長である、渡辺智也(わたなべともや)からだった。
元々彼の父親が医院長をしていた。
3年程前に彼が病院を引き継ぐこととなった。
まだ30代半ばだが、腕がよく、評判の名医となっていた。
そしてなによりモデル顔負けの容姿をしているため、そういう意味でも人気だった。
「そんな毎日落ちてきませんよ…」
瑠璃は呆れ気味に答える。
確かに以前は何回か、出勤中に鳩の糞が落ちてきたことはあった。
その時は職場へ着いたと同時に家に帰らせてもらったものだ。
「はは。そうだ、パリ旅行楽しかったか?」
「はい!あ、これお土産です」
と、クッキーが入った箱を渡す。
「悪いな。皆で食べるとするよ」
「ぜひぜひ〜」
瑠璃は制服に着替えるために更衣室へ向かった。
ほかの社員は40代後半の女性ばかりで、患者も内科なのもあってかお年寄りや子供が多く、出会いなんてなかった。
帰り道。
時刻は18時半を過ぎていた。
季節はもう時期11月。
日が落ちるのが早くなっていた。
(帰ったら何しようかなー)
なんて呑気に考えていると、目の前を歩いていた男性が突然倒れた。
「あの、大丈夫ですか?」
瑠璃はしゃがんで男性の体を擦る。
年齢は70代ぐらいだろうか。
色までは分からないが、上等そうな着物を着ていた。
「うっ…ゲホゲホ…」
咳をしているし、鼓動も荒い。
「私の職場、内科医なんです。すぐにそちらにお連れしますね」
おぶって行こうと思ったが、さすがに無理があったのでタクシーで職場まで向かった。
職場へ着いた瑠璃は医院長に事情を話し、ベッドへ老人を寝かせた。
老人はしばらく眠っていたが、数十分後目を覚ました。
「あ、お目覚めですか」
老人のそばに居た瑠璃は声をかける。
「君は…?ここは一体…」
老人は瑠璃の顔を見て、周りをキョロキョロと見回す。
「歩いていたら突然目の前で倒れたので、職場の病院にお連れしました」
「いやー、助かったよ。ワシは少々器官が弱くてのー。急に発作が起きることがあるんじゃが、君は命の恩人だ」
老人はぺこりと頭を下げる。
「そんな大袈裟です…でも大事に至らなくてよかったです」
「今度お礼をしたい」
老人は真っ直ぐに瑠璃を見つめる。
「いえいえ、お気になさらず…」
「いやいや、そういわずに…」
と瑠璃は連絡先が書かれた紙を貰った。
それから二言三言、医院長と話すと
「また連絡してくれたまえ」
老人はタクシーに乗って帰って行った。
(私もアパートへ帰るか)
瑠璃は再び帰路へ向かった。
「はぁー疲れたー」
と瑠璃はベッドへダイブした。
今日は5日ぶりの出勤だったり、老人を病院へ連れて行ったりと色々あった。
「それにしても…」
瑠璃は先程貰ったメモを見た。
「また連絡先貰っちゃったよ…どうしよう…」
今回の件は連絡した方がいいのかもしれない。
そんなことを考えているうちに2週間の時が流れた。
「浅田さん。藤堂(とうどう)さんって方からお電話なんだけども」
「え?」
いつものように医療事務の仕事をしていると、職場の先輩である相川真由子(あいかわまゆこ)に声をかけられた。
「いえ…そんな方、知り合いじゃないです…」
「あらそうなの?でも藤堂さんったら、ここで働いている20代半ばぐらいの女性と電話がしたいって言ってきて。それって浅田さんしかいないじゃない?」
「ああ、確かに…とりあえず電話代わります」
(誰だろう…)
瑠璃は受話器を受け取る。
「はい、浅田ですが…」
「おお、あの時の声だ。いやー、先日は助けて貰ってありがとう」
声を聞いてこちらもピンときた。
「あ、もしかして以前私がここへ連れてきた…」
「ああ、そういえば名乗っておらんかったの。藤堂総一郎(そういちろう)と申します。お嬢さんの名前は?」
「浅田瑠璃です」
「浅田さん、早速だが先日のお礼がしたい。空いている日付を教えてもらえないだろうか」
「そんな、お礼だなんて…私はたまたま目の前を歩いてた方が倒れたので、病院へお連れしたまでですから」
「いやいや、それほどのことをして貰ったのだからぜひお礼をさせて頂きたい。全員が全員できることではないことをあなたはしてくれたのだから」
そう言われると悪い気がしなかった。
「で、では来週の日曜日の12時頃に」
「待ち合わせはそちらの病院の前でいいかね?」
「はい、ありがとうございます」
「それではまた」
と、電話が切られた。
そして約束の日。
瑠璃は仕事は休みだが、待ち合わせ場所の職場へ来ていた。
どんな格好をしていったらいいのか分からなかったので無難に白いカーディガンに、黒のワンピースにパンプスを履いて待っていた。
時刻は11時55分。
そろそろ待ち合わせの時間になる。
と、目の前を1台の高級車が止まった。
運転席の窓が開く。
「浅田瑠璃さんでお間違えないでしょうか?」
凛とした声を聞いて瑠璃は固まってしまった。
(あの時パリで出会った人だ…)
パリで連絡先を教えてくれた人だった。
「え、あ、はい…」
「あれ?あなたはあの時の…」
向こうもこちらを覚えているようだ。
「はい、お、お久しぶりです…」
瑠璃は深々と頭を下げる。
「なんだ、孝太郎(こうたろう)、知り合いだったのか」
後部座席から総一郎の声が聞こえる。
「ああ、父さん。パリで出会ったんだよ」
(父さん…!まさか親子だったなんて)
「そいつはすごい偶然だ。まあまあ浅田さん、とりあえず車に乗って乗って」
瑠璃は遠慮がちに助手席へと座り、シートベルトをつけた。
「それでは出発しますね」
孝太郎は優しげな声で言うとアクセルを踏んだ。
「えっ、孝太郎さんって外交官なんですか?」
「ええ、まあ」
藤堂呼びだと紛らわしいからと、総一郎の提案で下の名前で呼ぶことになったが、男性を下の名前で呼ぶことなんて滅多になく少し緊張してしまう。
孝太郎の運転で着いた場所は、高級フランス料理の店だった。
困惑してる瑠璃を他所に、2人は慣れた様子で店員に話しかけてるのを見た時は「この2人は別世界の人なんだ」と確信した。
「じゃあ、あの時はお仕事でパリに来てたんですか?」
「はい」
孝太郎は上品な手つきでナイフとフォークを使って食事している。
「そうだったんですね」
「浅田さんも仕事で来ていたんですか?」
「いえ、私は単に友人と旅行で」
「なるほど」
などと話をしていると
「ところで、浅田さん。孝太郎のことどう思うかね」
と総一郎が声をかけてきた。
「え?えっと…」
(いきなりどうって言われても…)
「父さん、ここではその話はやめてください」
孝太郎が鋭い視線を総一郎に向けている。
「いいではないか、孝太郎。そろそろ身を固めたらどうだね」
「え、孝太郎さんって独身なんですか?」
こんなイケメン外交官が売れ残ってるなんて信じられなかった。
「はい。父は俺に結婚の話ばかりもってきて、うんざりしてるんです」
と肩を竦めた。
「なるほど…それは大変そうですね…」
「ワシは浅田さんと孝太郎、お似合いだと思うんだがなー。なによりワシの命の恩人でもあるし、しかも1度パリで出会ってるなんて運命的ではないかね」
「あはは…」
瑠璃は愛想笑いをする。
「父さん、浅田さんを困らせないでください。もうこの話はなしにしましょう」
「うーむ、だがな孝太郎…」
「父さん!」
孝太郎は机を両手で叩いた。
物凄い騒音がレストランに響いた。
「…」
「…」
「…」
周りの視線が一斉に孝太郎に集まる。
「まあまあ、今日はこのあたりで…」
瑠璃が宥めるように言う。
「ところで孝太郎さん…」
総一郎はそれから一言も話すことはなく、孝太郎と瑠璃は当たり障りない会話をしていた。
「わざわざ家まで送っていただいてありがとうございました」
瑠璃の借りているアパートの前に車が着いた。
「いや、こちらこそありがとう。お礼になったかね」
「はい、寧ろこちらがお礼しなきゃならないくらいです」
十分すぎるもてなしをされた。
「それならよかった。孝太郎のこともよろしく頼むよ」
「えっと…それは…」
「父さん、いい加減にしてください」
と、孝太郎は仏頂面で反抗する。
「いやいや、さっきから話してるのを見てると本当にお似合いの2人だと思うんだがなー」
「ゴホン、その話はもう終わりしましょ。それでは浅田さん、おやすみなさい」
「おやすみなさい…」
そう言うと孝太郎たちを乗せた車が動き出した。
「はぁ…」
瑠璃はため息混じりに玄関の電気をつける。
「結婚だなんて…」
いきなり話が急すぎた。
確かにパリで会った男性と再開したり、具合いが悪い人を助けたと思ったらそれがその人の父親だったなんて。
「よく出来すぎている…?」
靴を脱ぎながらそんなことを考える。
「まあ、外交官と私が結婚なんてありえないか」
脱いだ靴を揃えると、部屋の電気をつけて、玄関の電気を消した。
「あ、そういえば」
机の上に置きっぱなしになっていた、孝太郎から貰ったメモとハンカチのことをすっかり忘れていた。
「どうしよう…」
次会う機会なんてあるだろうか?
それともこのまま貰ってしまおうか。
「うーん…そうだ春香に相談してみよう」
瑠璃はスマホを片手に春香宛に「来週暇?」と連絡を入れた。
そして、来週。
瑠璃は春香とカフェでお茶をしていた。
「あーあー、いい出会いないかなー」
春香はストレートティーが入ったカップを片手にそんなことをぼんやり言う。
「出会いねー。私もないやー」
家と職場の往復だけの毎日で、そんな出会いなんて全くなかった。
「もうマッチングアプリとか使うしかないかも」
「あはは、確かにー」
もうお互い今年で27になる。
そろそろ結婚云々を本格的に考える時期だ。
「って、瑠璃はあの時のイケメンはどうなったの?」
「あーそれがさぁ。この前偶然助けたおじいちゃんがその人の父親でさー」
「ええー!なにそれー」
「すごい偶然でしょ」
瑠璃は得意げに言う。
「お近ずきになれた?」
「いやいや、全然。しかもその人、外交官みたいなの」
「イケメン外交官とか最高じゃん」
「そんな人と私が釣り合うわけないじゃん」
「まあ確かに、外交官ならもっといい出会いとか沢山ありそうだしね」
「そうそう」
瑠璃はコーヒーを1口飲んだ。
「でもだからって諦めるのは良くないんじゃない?」
「別にそんなに狙ってるわけじゃ…」
「もう、そんなこと言ってたらこのままずっと彼氏できないよ。いいのそれで?」
「よく、ないです…」
瑠璃は春香の圧に押され気味になった。
「そういえばハンカチは返したの?」
「ま、まだ…」
瑠璃は首を振った。
「ハンカチ返したいので〜みたいな感じで連絡してみたら?」
「うーん。そうだね、してみるよ」
まだ少し躊躇いがあるが、春香に背中を押された瑠璃は今夜連絡してみることにした。
そして、夜。
夜やるルーティンを早めに終えた瑠璃は、テーブルにスマホと連絡先が書かれた紙を置いて、正座をしていた。
「よし…」
時刻は20時を少し過ぎた頃。
瑠璃は意を決して、連絡先が書かれた紙の番号をスマホに打った。
「はい」
孝太郎はワンコールで電話に出てくれた。
「あ、あの先日お会いした浅田瑠璃です」
心臓がドクドクいっている。
思わずスマホを持つ手に力が入る
「ああ、浅田さん。どうかされましたか?」
孝太郎はそんな瑠璃とは対照的にとても冷静だった。
「パリでお借りしたハンカチをお返ししたくって」
「ああ、そういえば貸したままでしたね。わかりました。では今度の日曜日に以前父と行った店に12時に。また病院まで迎えに行きます」
「は、はい。ありがとうございます…」
「それでは。また」
「は、はい。また」
瑠璃はスマホを机に置く。
「ふぅ…びっくりした」
てっきり断られると思ったのにトントン拍子で話が進んだ。
「もしかしてハンカチ返して欲しかったのかな」
いくら外交官でお金があるとはいえ高級ブランドのハンカチだ。
「いや、そもそもハンカチになにか思い入れがあるとか?」
忘れられない元カノからもらったものかもしれない。
「ああ、もういいや。考えているとキリがない
」
瑠璃は自分にそう言い聞かせると、ベッドへもぐった。
こうして今度の日曜日になった。
はりきりすぎて約束の時間30分前に着いてしまった。
瑠璃は以前よりもずっとオシャレをして、孝太郎が来るのを待っていた。
(ヘアメイクもいつもよりも時間かけたし、大丈夫なはず…)
腕時計をチラチラ、スマホをチラチラしているうちに目の前に高級車が止まった。
運転席の窓が開き、孝太郎が声をかけてきた。
「浅田さん、お待たせしました」
「いえ、私も着いたところなので」
と、言うと助手席に座り、シートベルトをする。
「それでは向かいますか」
「はい」
「これ以前にお借りしたハンカチです。本当にあの時はありがとうございました」
レストランに着いた瑠璃は、借りていたハンカチを机に置いた。
「こちらこそ、ハンカチひとつの為にわざわざありがとうございます」
孝太郎は机の上に置かれたハンカチを受け取る。
「いえいえそんな、私の方こそ…」
瑠璃は椅子に座ったまま、頭を下げる。
なんて頭を下げていたら料理が運ばれてきた。
「うわー、今回の料理も美味しそう…」
瑠璃はスマホを片手に子供のようにはしゃぐ。
以前は総一郎がいて中々こういうことが出来なかったため、今回はだいぶ肩の荷をおろして食事が楽しめそうだった。
そんな姿を孝太郎はじっと見つめていたことに、瑠璃は気が付かなかった。
「それではいただきましょうか」
「はい、いただきます」
瑠璃は丁寧に手を合わせてから、ナイフとフォークを持つ。
「以前も思ったのですが、浅田さんはマナーがしっかりしてる方ですね」
「え?」
「手を合わせて、いただきますをする人って珍しいと思いますよ。しかも、わざわざハンカチを返したいだなんて言ってくる人も」
「そ、そうでしょうか…」
「はい、いいですね。そういうの」
瑠璃は一気に恥ずかしくなってきた。
(子供っぽいって思われたかな…)
どうしよう…
瑠璃はなにか話題がないかと頭をフル回転させる。
「そ、そういえば、あの時パリで怒鳴っていた男性は一体なにに怒っていたんですか?」
なんて突拍子もない話題しか出てこなかった。
「ああ、あれですか…」
孝太郎は少し怪訝そうな顔をした。
(聞いちゃまずかったかな)
自分のデリカシーのなさに反省する。
「実は自分の娘を嫁にどうかね。なんて言われたんです。それを断ったら激怒されてしまって…」
「ええ…そんなことが…」
日本にいたら父から言われ、海外へ行っても周りから言われるなんて。
「もううんざりしますよ。周りの結婚しろ攻撃には」
「あはは…孝太郎さんは結婚願望はないんですか?」
少し踏み入った話をしてしまったかもしれない。
が、孝太郎は特に気にすることも無く
「ないですかね。女性にこう言うのも失礼ですが、心から信じることが出来なくって…」
孝太郎は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ああ、なるほど…」
きっと外交官にでもなれば、お金目当てだったりで今までろくでもない女性からアタックされまくりなんだろう。
(そういう私も人のこと言えないか…っていやいや別に私はハンカチを返しに来ただけで、そんなお近ずきになろうなんて考えは…)
全くないとは言いきれなかった。
こうして、食事会も終わり瑠璃はまたアパートへ送って貰うことになった。
「毎回送っていただいてすみません…」
「これくらいのことはさせてください」
孝太郎はにこやかに答える。
(今回はやっとハンカチも渡せたし、これで会うのは最後だろうな…)
そんなことを考えていると
「あれ?サイレンの音?」
瑠璃にはウーと小さく聞こえた。
「ホントだ、北西の方から聞こえますね」
どうやら孝太郎にも聞こえたようだ。
「北西…」
ここから北西というと、瑠璃が借りてるアパートのあたりだ。
嫌な予感がした。
「…さん、浅田さん?」
「は、はい!」
「どうかしましたか、様子が変ですよ」
孝太郎はこちらを心配げに見つめる。
「い、いえ大丈夫です」
「ならいいですが…あ、煙臭くなってきましたね」
と孝太郎は換気のために少し開けていた窓を閉めた。
次の曲がり角を曲がったら、瑠璃の借りているアパートだ。
どうか杞憂に終わってくれ。
そう願って車は曲がり角を曲がると
「え?…」
瑠璃の借りてるアパートが燃えていた。
「う、そでしょ…」
「家事の場所って瑠璃さんの借りてるアパートなんですか?」
「は、はい…」
瑠璃は弱々しく答える。
「今日からネカフェとかで泊まらないといけないのかな…はは…」
思考が追いつかない。
アパートに引っ越してから約5年。
初任給で買った思い出の品や、母から送られてきたもの、今回のパリ旅行で買ったもの-
全てが燃えてしまっている。
ここまでくると1周回って面白くなってきた。
「もしよかったらなんですけど、俺の家に泊まりますか?」
「えっ!」
瑠璃は思ってもなかった提案に戸惑う。
「部屋余ってるし、客室もあるのでお気になさらず」
「でも…」
瑠璃は孝太郎の端正な顔と、燃えている自宅を見比べた。
確かに今夜から不自由なネットカフェ生活をおくるよりは、民家で身の回りのものを揃えながら次のアパートを見つければいい。
「じゃあ、お言葉に甘えて…」
「構いませんよ。では向かいますか」
「よろしくお願いします」
こうして孝太郎の住んでいる家?に来た瑠璃だったが
(な、なにこの豪邸は…)
最初に案内された時は、どこかの旅館にでも連れていかれたかと思ったほどだ。
2メートルはある塀に囲まれた、上から見るとコの字型をした建物。
(お坊ちゃまで、外交官ってこの人どんだけすごいの)
「す、すごい豪邸ですね…」
瑠璃は遠慮がちにいう。
「そうですか?普通ですよ」
(いや、普通って…)
孝太郎は何食わぬ顔をして、車を車庫に入れる。
車庫には別の高級車が並んでいた。
「あ、あの私、日用雑貨を買いに行きたいんですけど、近くにお店ってありますか?」
「ああ、心配ありませんよ。全て部屋にあるものを自由に使ってください」
「え?」
孝太郎はそう言うと車から降りる。
瑠璃も続けて車から降りた。
ガチャと車の鍵がしまった音がしたと同時に
「おかえりなさいませ」
と50代ほどの女性が声をかけてきた。
「ああ、高橋(たかはし)さん、この方を今日から暫く家に置いて貰えないだろうか」
お手伝いさんか何かだろうか。
まとめられた黒髪が艶やかな小柄な女性だった。
「まあ!かしこまりました。ではこちらに」
とどこか嬉しそうに言う。
瑠璃は女性の側へ駆け寄る。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
高橋は優しげな声で聞いてきた。
「浅田瑠璃と言います。あの、よろしくお願いします」
瑠璃は頭を下げる。
「浅田様でございますね。かしこまりました。それではお部屋へ案内します」
歩き出した高橋に瑠璃は着いて行った。
「こちらがお部屋になります」
と、高橋に案内された部屋はとんでもなかった。
10畳ほどの広さがある部屋には綺麗な畳が、事前に敷かれてあった布団は見るからにふかふかそうだし、寝巻まで置いてある。
鏡台や箪笥など生活するには困らない程度の家具も置かれていた。
「こんな綺麗な部屋に泊まってもいいんですか?」
瑠璃は困惑を隠せないまま、高橋に聞く。
「お好きにお使いくださいませ。なにかありましたら、私の方まで。ところで…」
高橋は瑠璃との距離を詰める。
「な、な、なんでしょうか…?」
瑠璃は詰められた距離の分、後ろへと下がる。
「浅田様は孝太郎様の恋人でしょうか?」
目をキラキラさせて聞いてきた。
「え、そんな違います」
瑠璃は慌てて訂正する。
「まあ、そうですか…孝太郎様が女性をお連れしたのは今回が初めてですので、遂に恋人をお連れしたのかとばかり…」
高橋はがっくりと肩を落とす。
「すみません、そういうわけじゃなくって…」
なにやらこちらまで申し訳なくなってきて、瑠璃も肩を落とす。
「いえいえ、構いませんよ。それではまた」
と高橋は襖を閉めて出ていった。
(今まで1度も女性を連れてきたことがないのか…)
ここまで来ると相当な女性嫌い、女性に対してのトラウマが強いように感じた。
(せっかくお近ずきになれたのにな…)
と、コンコンコンと襖をノックする音がした。
「は、はい」
瑠璃は姿勢を正す。
「失礼します」
襖を開けてその場で正座をしたのは孝太郎だった。
「浅田さん、部屋はどうですか?」
「とても素敵です…こんな素敵な部屋に泊まってもいいのでしょうか?」
瑠璃は高橋に言ったことを、もう一度孝太郎に言う。
「素敵だなんてとんでもないです。ただの客室ですので、くつろいでください。必要なものがありましたら高橋に言ってください」
「わかりました」
「そうだ、以前俺に連絡をくれた番号は、浅田さんの携帯番号で間違えないでしょうか?」
「はい、私の携帯番号です」
「了解しました。それではまた、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
襖が閉められた。
「ふぅ…」
瑠璃は1度大きく深呼吸をした。
今日は本当に色々あった。
ハンカチを返せて、自宅が燃えて、もう会うことも無いだろうと思ってた人の家に置いてもらうことになって…
「もういいや今日は休もう」
瑠璃はさらに部屋を見回した。
まだ開けてない扉がいくつかあり、順番に開けると、浴室とトイレだった。
更に洗面台にはよくあるホテルのアメニティのようなものや化粧水、乳液なども置いてあった。
「すごい…こんなに揃っていたら本当に買い出しに行かなくても済む…」
尚更このままお世話になるのが申し訳なくなった。
「そうだ」
明日から家事などの雑用をできる限り手伝おう。
「明日も仕事だし、早く起きないとな」
瑠璃はシャワーを浴び、置いてあった寝巻に着替え、アメニティを袋から出し、一通り普段のケアを終えると布団に入って眠りについた。
テストを受ければ終了5分前に解答がズレてることに気づいたり、傘を忘れた時に限って大雨が降ったり、鳩の糞は何回頭上に落ちてきたか数えるのを辞めてしまったぐらいだ。
他にもタイミングが悪かったり、ついうっかりをやらかしてしまったりと忘れてしまいたいことなど山のようにあった。
そういえばあの時も不運だった。
が、それが後にこんな事になるなんて思いもしなかった。
友達の春香(はるか)とパリに来ていた瑠璃(るり)はセーヌ川のクルージングを楽しんでいた。
キラキラと光る海と街並みに心を奪われていた。
「本当に綺麗ねー」
春香がデッキから乗り出しがちになりながら言う。
春香の茶色い長い髪が海風に揺られていた。
「そうだねー。来てよかったー」
瑠璃はカクテルグラスを片手に、のんびりと答える。
思い返せばパリに来てから、特に不幸な出来事が起きてなかった。
このまま最後の予定だったクルージングも無事に終わりそう。
そんなことを考えていると、遠くから怒鳴り声が聞こえてきた。
「え?なんだろう…?」
「さぁ…?」
瑠璃と春香は顔を見合せた。
どうやら、スーツ姿の男性がフランス語で怒鳴り散らしていた。
それを宥めるように周りの人達が必死に声をかけていた。
「喧嘩とか?」
「多分…」
そんな話をしていると、怒鳴り散らしいた男性がこちらへ向かってきた。
瑠璃とドンとぶつかり、持っていたシャンパングラスの中のシャンパンがストールにかかってしまった。
「ああ…」
(もう最悪…)
ここに来てから初めて、不幸なことがおきてしまった。
「瑠璃!大丈夫?」
「う、うん…」
瑠璃はストールを肩からかけるのをやめて、手で持った。
「すみません、大丈夫でしたか?」
と、凛とした声で日本語を話す聞こえた。
振り返ると芸能人ばりの美形の男性がスーツを着て、ハンカチをこちらに差し出していた。
(うわ、かっこいい人…)
180センチ近くある身長に、切れ長の目。
整った目鼻立ち、形のいい輪郭、綺麗にカットされた眉。
「あ、はい…大丈夫です」
と答えると、男性はハンカチと小さなメモを渡してきた。
「これ、俺の連絡先です。」
「え!はい」
瑠璃はそっと受け取る。
「何かあったらこちらまで、それでは」
と、足早に去っていった。
「ちょっと〜、なにさっきのイケメンは…って連絡先教えてもらったの?」
「う、うん…」
瑠璃は困ったような顔をして、春香をみた。
「日本帰ったら連絡しちゃいなよー。あんなイケメンとお近ずきになれるかも」
「あはは、そうだね…」
こうして2人はパリを後にした。
「あーやっと帰ってきたー」
日本に帰国し、瑠璃が借りているアパートへ着いた。
「明日からまた仕事かー。よし、頑張るぞ」
なんて言いながらスーツケースを開け、荷物の整頓をしていた。
「これは洗濯して、こっちは明日職場で配るクッキーだから置いておいて…」
などと仕分けているうちに
「あ」
男性の連絡先がかかれた、メモとハンカチが出てきた。
よくハンカチを見てみると、真っ白な布地に有名高級ブランドのロゴが刺繍してあった。
「このハンカチってPINKYCAT(ピンキーキャット)のじゃん。かなりの値段するんじゃ…」
このまま貰っておくのは良くない気がするし、かといってハンカチひとつのためにわざわざ連絡するのもどうかと思った。
「うーん、どうしよう…」
そもそも彼はまだパリにいるかもしれないし、元々パリの人なのかもしれない。
「でも流暢に日本語話してたしなー」
どうしようかと考えているうちに、もう時刻は23時を過ぎようとしていた。
「いけない、明日から仕事なのに」
瑠璃はメモとハンカチをテーブルの上に置き、慌てて他の荷物も片付ける。
浴室へ向かいお風呂の栓を閉めると、お風呂を沸かすスイッチを押した。
そして次の日。
「おはようございまーす」
と、瑠璃は職場の人達に挨拶をした。
瑠璃が務めているのは総員5人ほどの個人病院だ。
そこで医療事務の仕事をしている。
「おはよう、浅田(あさだ)。今日は鳩の糞が落ちてこなかったか?」
真っ先に挨拶をしてくれたのはここの医院長である、渡辺智也(わたなべともや)からだった。
元々彼の父親が医院長をしていた。
3年程前に彼が病院を引き継ぐこととなった。
まだ30代半ばだが、腕がよく、評判の名医となっていた。
そしてなによりモデル顔負けの容姿をしているため、そういう意味でも人気だった。
「そんな毎日落ちてきませんよ…」
瑠璃は呆れ気味に答える。
確かに以前は何回か、出勤中に鳩の糞が落ちてきたことはあった。
その時は職場へ着いたと同時に家に帰らせてもらったものだ。
「はは。そうだ、パリ旅行楽しかったか?」
「はい!あ、これお土産です」
と、クッキーが入った箱を渡す。
「悪いな。皆で食べるとするよ」
「ぜひぜひ〜」
瑠璃は制服に着替えるために更衣室へ向かった。
ほかの社員は40代後半の女性ばかりで、患者も内科なのもあってかお年寄りや子供が多く、出会いなんてなかった。
帰り道。
時刻は18時半を過ぎていた。
季節はもう時期11月。
日が落ちるのが早くなっていた。
(帰ったら何しようかなー)
なんて呑気に考えていると、目の前を歩いていた男性が突然倒れた。
「あの、大丈夫ですか?」
瑠璃はしゃがんで男性の体を擦る。
年齢は70代ぐらいだろうか。
色までは分からないが、上等そうな着物を着ていた。
「うっ…ゲホゲホ…」
咳をしているし、鼓動も荒い。
「私の職場、内科医なんです。すぐにそちらにお連れしますね」
おぶって行こうと思ったが、さすがに無理があったのでタクシーで職場まで向かった。
職場へ着いた瑠璃は医院長に事情を話し、ベッドへ老人を寝かせた。
老人はしばらく眠っていたが、数十分後目を覚ました。
「あ、お目覚めですか」
老人のそばに居た瑠璃は声をかける。
「君は…?ここは一体…」
老人は瑠璃の顔を見て、周りをキョロキョロと見回す。
「歩いていたら突然目の前で倒れたので、職場の病院にお連れしました」
「いやー、助かったよ。ワシは少々器官が弱くてのー。急に発作が起きることがあるんじゃが、君は命の恩人だ」
老人はぺこりと頭を下げる。
「そんな大袈裟です…でも大事に至らなくてよかったです」
「今度お礼をしたい」
老人は真っ直ぐに瑠璃を見つめる。
「いえいえ、お気になさらず…」
「いやいや、そういわずに…」
と瑠璃は連絡先が書かれた紙を貰った。
それから二言三言、医院長と話すと
「また連絡してくれたまえ」
老人はタクシーに乗って帰って行った。
(私もアパートへ帰るか)
瑠璃は再び帰路へ向かった。
「はぁー疲れたー」
と瑠璃はベッドへダイブした。
今日は5日ぶりの出勤だったり、老人を病院へ連れて行ったりと色々あった。
「それにしても…」
瑠璃は先程貰ったメモを見た。
「また連絡先貰っちゃったよ…どうしよう…」
今回の件は連絡した方がいいのかもしれない。
そんなことを考えているうちに2週間の時が流れた。
「浅田さん。藤堂(とうどう)さんって方からお電話なんだけども」
「え?」
いつものように医療事務の仕事をしていると、職場の先輩である相川真由子(あいかわまゆこ)に声をかけられた。
「いえ…そんな方、知り合いじゃないです…」
「あらそうなの?でも藤堂さんったら、ここで働いている20代半ばぐらいの女性と電話がしたいって言ってきて。それって浅田さんしかいないじゃない?」
「ああ、確かに…とりあえず電話代わります」
(誰だろう…)
瑠璃は受話器を受け取る。
「はい、浅田ですが…」
「おお、あの時の声だ。いやー、先日は助けて貰ってありがとう」
声を聞いてこちらもピンときた。
「あ、もしかして以前私がここへ連れてきた…」
「ああ、そういえば名乗っておらんかったの。藤堂総一郎(そういちろう)と申します。お嬢さんの名前は?」
「浅田瑠璃です」
「浅田さん、早速だが先日のお礼がしたい。空いている日付を教えてもらえないだろうか」
「そんな、お礼だなんて…私はたまたま目の前を歩いてた方が倒れたので、病院へお連れしたまでですから」
「いやいや、それほどのことをして貰ったのだからぜひお礼をさせて頂きたい。全員が全員できることではないことをあなたはしてくれたのだから」
そう言われると悪い気がしなかった。
「で、では来週の日曜日の12時頃に」
「待ち合わせはそちらの病院の前でいいかね?」
「はい、ありがとうございます」
「それではまた」
と、電話が切られた。
そして約束の日。
瑠璃は仕事は休みだが、待ち合わせ場所の職場へ来ていた。
どんな格好をしていったらいいのか分からなかったので無難に白いカーディガンに、黒のワンピースにパンプスを履いて待っていた。
時刻は11時55分。
そろそろ待ち合わせの時間になる。
と、目の前を1台の高級車が止まった。
運転席の窓が開く。
「浅田瑠璃さんでお間違えないでしょうか?」
凛とした声を聞いて瑠璃は固まってしまった。
(あの時パリで出会った人だ…)
パリで連絡先を教えてくれた人だった。
「え、あ、はい…」
「あれ?あなたはあの時の…」
向こうもこちらを覚えているようだ。
「はい、お、お久しぶりです…」
瑠璃は深々と頭を下げる。
「なんだ、孝太郎(こうたろう)、知り合いだったのか」
後部座席から総一郎の声が聞こえる。
「ああ、父さん。パリで出会ったんだよ」
(父さん…!まさか親子だったなんて)
「そいつはすごい偶然だ。まあまあ浅田さん、とりあえず車に乗って乗って」
瑠璃は遠慮がちに助手席へと座り、シートベルトをつけた。
「それでは出発しますね」
孝太郎は優しげな声で言うとアクセルを踏んだ。
「えっ、孝太郎さんって外交官なんですか?」
「ええ、まあ」
藤堂呼びだと紛らわしいからと、総一郎の提案で下の名前で呼ぶことになったが、男性を下の名前で呼ぶことなんて滅多になく少し緊張してしまう。
孝太郎の運転で着いた場所は、高級フランス料理の店だった。
困惑してる瑠璃を他所に、2人は慣れた様子で店員に話しかけてるのを見た時は「この2人は別世界の人なんだ」と確信した。
「じゃあ、あの時はお仕事でパリに来てたんですか?」
「はい」
孝太郎は上品な手つきでナイフとフォークを使って食事している。
「そうだったんですね」
「浅田さんも仕事で来ていたんですか?」
「いえ、私は単に友人と旅行で」
「なるほど」
などと話をしていると
「ところで、浅田さん。孝太郎のことどう思うかね」
と総一郎が声をかけてきた。
「え?えっと…」
(いきなりどうって言われても…)
「父さん、ここではその話はやめてください」
孝太郎が鋭い視線を総一郎に向けている。
「いいではないか、孝太郎。そろそろ身を固めたらどうだね」
「え、孝太郎さんって独身なんですか?」
こんなイケメン外交官が売れ残ってるなんて信じられなかった。
「はい。父は俺に結婚の話ばかりもってきて、うんざりしてるんです」
と肩を竦めた。
「なるほど…それは大変そうですね…」
「ワシは浅田さんと孝太郎、お似合いだと思うんだがなー。なによりワシの命の恩人でもあるし、しかも1度パリで出会ってるなんて運命的ではないかね」
「あはは…」
瑠璃は愛想笑いをする。
「父さん、浅田さんを困らせないでください。もうこの話はなしにしましょう」
「うーむ、だがな孝太郎…」
「父さん!」
孝太郎は机を両手で叩いた。
物凄い騒音がレストランに響いた。
「…」
「…」
「…」
周りの視線が一斉に孝太郎に集まる。
「まあまあ、今日はこのあたりで…」
瑠璃が宥めるように言う。
「ところで孝太郎さん…」
総一郎はそれから一言も話すことはなく、孝太郎と瑠璃は当たり障りない会話をしていた。
「わざわざ家まで送っていただいてありがとうございました」
瑠璃の借りているアパートの前に車が着いた。
「いや、こちらこそありがとう。お礼になったかね」
「はい、寧ろこちらがお礼しなきゃならないくらいです」
十分すぎるもてなしをされた。
「それならよかった。孝太郎のこともよろしく頼むよ」
「えっと…それは…」
「父さん、いい加減にしてください」
と、孝太郎は仏頂面で反抗する。
「いやいや、さっきから話してるのを見てると本当にお似合いの2人だと思うんだがなー」
「ゴホン、その話はもう終わりしましょ。それでは浅田さん、おやすみなさい」
「おやすみなさい…」
そう言うと孝太郎たちを乗せた車が動き出した。
「はぁ…」
瑠璃はため息混じりに玄関の電気をつける。
「結婚だなんて…」
いきなり話が急すぎた。
確かにパリで会った男性と再開したり、具合いが悪い人を助けたと思ったらそれがその人の父親だったなんて。
「よく出来すぎている…?」
靴を脱ぎながらそんなことを考える。
「まあ、外交官と私が結婚なんてありえないか」
脱いだ靴を揃えると、部屋の電気をつけて、玄関の電気を消した。
「あ、そういえば」
机の上に置きっぱなしになっていた、孝太郎から貰ったメモとハンカチのことをすっかり忘れていた。
「どうしよう…」
次会う機会なんてあるだろうか?
それともこのまま貰ってしまおうか。
「うーん…そうだ春香に相談してみよう」
瑠璃はスマホを片手に春香宛に「来週暇?」と連絡を入れた。
そして、来週。
瑠璃は春香とカフェでお茶をしていた。
「あーあー、いい出会いないかなー」
春香はストレートティーが入ったカップを片手にそんなことをぼんやり言う。
「出会いねー。私もないやー」
家と職場の往復だけの毎日で、そんな出会いなんて全くなかった。
「もうマッチングアプリとか使うしかないかも」
「あはは、確かにー」
もうお互い今年で27になる。
そろそろ結婚云々を本格的に考える時期だ。
「って、瑠璃はあの時のイケメンはどうなったの?」
「あーそれがさぁ。この前偶然助けたおじいちゃんがその人の父親でさー」
「ええー!なにそれー」
「すごい偶然でしょ」
瑠璃は得意げに言う。
「お近ずきになれた?」
「いやいや、全然。しかもその人、外交官みたいなの」
「イケメン外交官とか最高じゃん」
「そんな人と私が釣り合うわけないじゃん」
「まあ確かに、外交官ならもっといい出会いとか沢山ありそうだしね」
「そうそう」
瑠璃はコーヒーを1口飲んだ。
「でもだからって諦めるのは良くないんじゃない?」
「別にそんなに狙ってるわけじゃ…」
「もう、そんなこと言ってたらこのままずっと彼氏できないよ。いいのそれで?」
「よく、ないです…」
瑠璃は春香の圧に押され気味になった。
「そういえばハンカチは返したの?」
「ま、まだ…」
瑠璃は首を振った。
「ハンカチ返したいので〜みたいな感じで連絡してみたら?」
「うーん。そうだね、してみるよ」
まだ少し躊躇いがあるが、春香に背中を押された瑠璃は今夜連絡してみることにした。
そして、夜。
夜やるルーティンを早めに終えた瑠璃は、テーブルにスマホと連絡先が書かれた紙を置いて、正座をしていた。
「よし…」
時刻は20時を少し過ぎた頃。
瑠璃は意を決して、連絡先が書かれた紙の番号をスマホに打った。
「はい」
孝太郎はワンコールで電話に出てくれた。
「あ、あの先日お会いした浅田瑠璃です」
心臓がドクドクいっている。
思わずスマホを持つ手に力が入る
「ああ、浅田さん。どうかされましたか?」
孝太郎はそんな瑠璃とは対照的にとても冷静だった。
「パリでお借りしたハンカチをお返ししたくって」
「ああ、そういえば貸したままでしたね。わかりました。では今度の日曜日に以前父と行った店に12時に。また病院まで迎えに行きます」
「は、はい。ありがとうございます…」
「それでは。また」
「は、はい。また」
瑠璃はスマホを机に置く。
「ふぅ…びっくりした」
てっきり断られると思ったのにトントン拍子で話が進んだ。
「もしかしてハンカチ返して欲しかったのかな」
いくら外交官でお金があるとはいえ高級ブランドのハンカチだ。
「いや、そもそもハンカチになにか思い入れがあるとか?」
忘れられない元カノからもらったものかもしれない。
「ああ、もういいや。考えているとキリがない
」
瑠璃は自分にそう言い聞かせると、ベッドへもぐった。
こうして今度の日曜日になった。
はりきりすぎて約束の時間30分前に着いてしまった。
瑠璃は以前よりもずっとオシャレをして、孝太郎が来るのを待っていた。
(ヘアメイクもいつもよりも時間かけたし、大丈夫なはず…)
腕時計をチラチラ、スマホをチラチラしているうちに目の前に高級車が止まった。
運転席の窓が開き、孝太郎が声をかけてきた。
「浅田さん、お待たせしました」
「いえ、私も着いたところなので」
と、言うと助手席に座り、シートベルトをする。
「それでは向かいますか」
「はい」
「これ以前にお借りしたハンカチです。本当にあの時はありがとうございました」
レストランに着いた瑠璃は、借りていたハンカチを机に置いた。
「こちらこそ、ハンカチひとつの為にわざわざありがとうございます」
孝太郎は机の上に置かれたハンカチを受け取る。
「いえいえそんな、私の方こそ…」
瑠璃は椅子に座ったまま、頭を下げる。
なんて頭を下げていたら料理が運ばれてきた。
「うわー、今回の料理も美味しそう…」
瑠璃はスマホを片手に子供のようにはしゃぐ。
以前は総一郎がいて中々こういうことが出来なかったため、今回はだいぶ肩の荷をおろして食事が楽しめそうだった。
そんな姿を孝太郎はじっと見つめていたことに、瑠璃は気が付かなかった。
「それではいただきましょうか」
「はい、いただきます」
瑠璃は丁寧に手を合わせてから、ナイフとフォークを持つ。
「以前も思ったのですが、浅田さんはマナーがしっかりしてる方ですね」
「え?」
「手を合わせて、いただきますをする人って珍しいと思いますよ。しかも、わざわざハンカチを返したいだなんて言ってくる人も」
「そ、そうでしょうか…」
「はい、いいですね。そういうの」
瑠璃は一気に恥ずかしくなってきた。
(子供っぽいって思われたかな…)
どうしよう…
瑠璃はなにか話題がないかと頭をフル回転させる。
「そ、そういえば、あの時パリで怒鳴っていた男性は一体なにに怒っていたんですか?」
なんて突拍子もない話題しか出てこなかった。
「ああ、あれですか…」
孝太郎は少し怪訝そうな顔をした。
(聞いちゃまずかったかな)
自分のデリカシーのなさに反省する。
「実は自分の娘を嫁にどうかね。なんて言われたんです。それを断ったら激怒されてしまって…」
「ええ…そんなことが…」
日本にいたら父から言われ、海外へ行っても周りから言われるなんて。
「もううんざりしますよ。周りの結婚しろ攻撃には」
「あはは…孝太郎さんは結婚願望はないんですか?」
少し踏み入った話をしてしまったかもしれない。
が、孝太郎は特に気にすることも無く
「ないですかね。女性にこう言うのも失礼ですが、心から信じることが出来なくって…」
孝太郎は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ああ、なるほど…」
きっと外交官にでもなれば、お金目当てだったりで今までろくでもない女性からアタックされまくりなんだろう。
(そういう私も人のこと言えないか…っていやいや別に私はハンカチを返しに来ただけで、そんなお近ずきになろうなんて考えは…)
全くないとは言いきれなかった。
こうして、食事会も終わり瑠璃はまたアパートへ送って貰うことになった。
「毎回送っていただいてすみません…」
「これくらいのことはさせてください」
孝太郎はにこやかに答える。
(今回はやっとハンカチも渡せたし、これで会うのは最後だろうな…)
そんなことを考えていると
「あれ?サイレンの音?」
瑠璃にはウーと小さく聞こえた。
「ホントだ、北西の方から聞こえますね」
どうやら孝太郎にも聞こえたようだ。
「北西…」
ここから北西というと、瑠璃が借りてるアパートのあたりだ。
嫌な予感がした。
「…さん、浅田さん?」
「は、はい!」
「どうかしましたか、様子が変ですよ」
孝太郎はこちらを心配げに見つめる。
「い、いえ大丈夫です」
「ならいいですが…あ、煙臭くなってきましたね」
と孝太郎は換気のために少し開けていた窓を閉めた。
次の曲がり角を曲がったら、瑠璃の借りているアパートだ。
どうか杞憂に終わってくれ。
そう願って車は曲がり角を曲がると
「え?…」
瑠璃の借りてるアパートが燃えていた。
「う、そでしょ…」
「家事の場所って瑠璃さんの借りてるアパートなんですか?」
「は、はい…」
瑠璃は弱々しく答える。
「今日からネカフェとかで泊まらないといけないのかな…はは…」
思考が追いつかない。
アパートに引っ越してから約5年。
初任給で買った思い出の品や、母から送られてきたもの、今回のパリ旅行で買ったもの-
全てが燃えてしまっている。
ここまでくると1周回って面白くなってきた。
「もしよかったらなんですけど、俺の家に泊まりますか?」
「えっ!」
瑠璃は思ってもなかった提案に戸惑う。
「部屋余ってるし、客室もあるのでお気になさらず」
「でも…」
瑠璃は孝太郎の端正な顔と、燃えている自宅を見比べた。
確かに今夜から不自由なネットカフェ生活をおくるよりは、民家で身の回りのものを揃えながら次のアパートを見つければいい。
「じゃあ、お言葉に甘えて…」
「構いませんよ。では向かいますか」
「よろしくお願いします」
こうして孝太郎の住んでいる家?に来た瑠璃だったが
(な、なにこの豪邸は…)
最初に案内された時は、どこかの旅館にでも連れていかれたかと思ったほどだ。
2メートルはある塀に囲まれた、上から見るとコの字型をした建物。
(お坊ちゃまで、外交官ってこの人どんだけすごいの)
「す、すごい豪邸ですね…」
瑠璃は遠慮がちにいう。
「そうですか?普通ですよ」
(いや、普通って…)
孝太郎は何食わぬ顔をして、車を車庫に入れる。
車庫には別の高級車が並んでいた。
「あ、あの私、日用雑貨を買いに行きたいんですけど、近くにお店ってありますか?」
「ああ、心配ありませんよ。全て部屋にあるものを自由に使ってください」
「え?」
孝太郎はそう言うと車から降りる。
瑠璃も続けて車から降りた。
ガチャと車の鍵がしまった音がしたと同時に
「おかえりなさいませ」
と50代ほどの女性が声をかけてきた。
「ああ、高橋(たかはし)さん、この方を今日から暫く家に置いて貰えないだろうか」
お手伝いさんか何かだろうか。
まとめられた黒髪が艶やかな小柄な女性だった。
「まあ!かしこまりました。ではこちらに」
とどこか嬉しそうに言う。
瑠璃は女性の側へ駆け寄る。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
高橋は優しげな声で聞いてきた。
「浅田瑠璃と言います。あの、よろしくお願いします」
瑠璃は頭を下げる。
「浅田様でございますね。かしこまりました。それではお部屋へ案内します」
歩き出した高橋に瑠璃は着いて行った。
「こちらがお部屋になります」
と、高橋に案内された部屋はとんでもなかった。
10畳ほどの広さがある部屋には綺麗な畳が、事前に敷かれてあった布団は見るからにふかふかそうだし、寝巻まで置いてある。
鏡台や箪笥など生活するには困らない程度の家具も置かれていた。
「こんな綺麗な部屋に泊まってもいいんですか?」
瑠璃は困惑を隠せないまま、高橋に聞く。
「お好きにお使いくださいませ。なにかありましたら、私の方まで。ところで…」
高橋は瑠璃との距離を詰める。
「な、な、なんでしょうか…?」
瑠璃は詰められた距離の分、後ろへと下がる。
「浅田様は孝太郎様の恋人でしょうか?」
目をキラキラさせて聞いてきた。
「え、そんな違います」
瑠璃は慌てて訂正する。
「まあ、そうですか…孝太郎様が女性をお連れしたのは今回が初めてですので、遂に恋人をお連れしたのかとばかり…」
高橋はがっくりと肩を落とす。
「すみません、そういうわけじゃなくって…」
なにやらこちらまで申し訳なくなってきて、瑠璃も肩を落とす。
「いえいえ、構いませんよ。それではまた」
と高橋は襖を閉めて出ていった。
(今まで1度も女性を連れてきたことがないのか…)
ここまで来ると相当な女性嫌い、女性に対してのトラウマが強いように感じた。
(せっかくお近ずきになれたのにな…)
と、コンコンコンと襖をノックする音がした。
「は、はい」
瑠璃は姿勢を正す。
「失礼します」
襖を開けてその場で正座をしたのは孝太郎だった。
「浅田さん、部屋はどうですか?」
「とても素敵です…こんな素敵な部屋に泊まってもいいのでしょうか?」
瑠璃は高橋に言ったことを、もう一度孝太郎に言う。
「素敵だなんてとんでもないです。ただの客室ですので、くつろいでください。必要なものがありましたら高橋に言ってください」
「わかりました」
「そうだ、以前俺に連絡をくれた番号は、浅田さんの携帯番号で間違えないでしょうか?」
「はい、私の携帯番号です」
「了解しました。それではまた、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
襖が閉められた。
「ふぅ…」
瑠璃は1度大きく深呼吸をした。
今日は本当に色々あった。
ハンカチを返せて、自宅が燃えて、もう会うことも無いだろうと思ってた人の家に置いてもらうことになって…
「もういいや今日は休もう」
瑠璃はさらに部屋を見回した。
まだ開けてない扉がいくつかあり、順番に開けると、浴室とトイレだった。
更に洗面台にはよくあるホテルのアメニティのようなものや化粧水、乳液なども置いてあった。
「すごい…こんなに揃っていたら本当に買い出しに行かなくても済む…」
尚更このままお世話になるのが申し訳なくなった。
「そうだ」
明日から家事などの雑用をできる限り手伝おう。
「明日も仕事だし、早く起きないとな」
瑠璃はシャワーを浴び、置いてあった寝巻に着替え、アメニティを袋から出し、一通り普段のケアを終えると布団に入って眠りについた。
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