この恋は突然に… 〜エリート外交官に見初められて〜
そして次の日。
起きた時刻は7時40分。
あんなに早く起きないとなと意気込んでいたいのに、盛大に寝坊してしまった。
が、「うわーどうしよう」
瑠璃は何よりもメイク道具一式や着替えがないことに気がついた。
箪笥を開けてみると、見るからに上質な着物と足袋が山ほどはいっているだけで洋服は1つもなかった。
「スッピンは流石にまずいし…かといってメイクしようにも道具なんて何にもないし」
寝癖をドライヤーで直しながら、あれやこれやと考えているうちに
「おはようございます、浅田様」
正座をして上品に頭を下げる、高橋の姿が鏡越しに見えた。
瑠璃はドライヤーをかけるのをやめると、こちらもその場で正座して
「お、おはようございます」
顔を見られないように素早く頭を下げた。
「お化粧品がおいてなかったと思われたので、持って参りました」
「ホントですか?!助かります」
「あとはお着替えと靴も」
「え!嘘…ありがとうございます」
と、ここでようやく顔を上げると高橋と目が合った。
「…!浅田様、スッピンの方がお綺麗ですよ」
「いやいや、それはさすがに…」
瑠璃は自分がメイクが苦手なのを自覚していた。
かといって、毎回数万円分を顔に塗っているのに何も塗ってない方が綺麗と言われるのは中々ショックだった。
「本当ですよ。さあ、身なりを整え下さいませ。孝太郎様がお待ちですよ」
「孝太郎さんが?」
瑠璃が聞き返すと
「職場まで送ってくださるそうですよ」
「ええ?!」
それはいくらなんでも申し訳ない。
「いえ、私1人で行けます」
「そう仰らずに。沢山甘えてくださいませ」
ふふふと、高崎はどこか嬉しそうに答える。
「それでは」
と襖を閉めて出ていってしまった。
「と、とりあえず早く準備しないとな」
瑠璃は持ってきてもらった化粧品一式を確認すると、どれもこれもデパートで売ってるものだった。
「もしかして昨日大至急買ってきてくれたのかな?」
とアイシャドウパレットをみると。
「うわー、普段私が絶対使わない色だ…」
いつもはイエローやオレンジなどはっきりとした色のアイシャドウを使っていたが、パレットに入ってた色はラベンダーやブルー、グレーなど淡い色だった。
こればかりは仕方がない。
自分を納得させてアイシャドウを目元にのせると
「あれ?」
なんだか普段よりも肌馴染みがいい気がした。
「流石はデパコス」
と関心しながらメイクをしていくと
「出来た…」
そこにはいつもよりも格段に垢抜けた自分が映ってた。
ふわふわの眉毛に、普段の倍はくるんとした睫毛が彩るのはいつもよりも大きな瞳。
ハイライトの艶も素晴らしく、肌が数段階綺麗に見えた。
「すごいすごい〜。これがデパコスの力か〜」
感動して鏡をみる。
「って、見惚れてる場合じゃなかった」
今度は渡された洋服の方を見てみると
「わ〜」
全て借りたハンカチと同じブランド、PINKYCATのものだった。
「これって、スカートだけで2、3万はするんじゃ…」
確か以前デパートで立ち寄った際、値札にはどれもこれも数万円と書いてあった。
「まさかここの服を着る機会がくるとは…」
瑠璃は袖を通す度に心の中で(ありがとうございます。ありがとうございます…)と感謝していた。
そして、着替えが完了した。
「うっわ〜、本当に私なの?」
鏡に映った自分はいつもよりも洗練された、どこか近寄り難い印象すら与える女性へなっていた。
全て自分で行ったのに、まるでプロのスタイリストにおまかせしたかのような仕上がりだった。
いつまでも鏡を見ていたいが、そうしてもいられない。
瑠璃は用意されたパンプスを持って、襖を開け、早歩きで玄関へと向かった。
「お待たせしました」
瑠璃は軽く頭を下げながら、孝太郎の車へ乗り込む。
「気にしないでください。ああ、やっぱり浅田さんにはそういう色のアイシャドウがよく似合いますね」
「そうですか?ありがとうございます…高橋さんのチョイスのお陰です」
最初はどうなるかと思いきやこんなに綺麗にまとまるなんて。
「浅田さんはイエローベースではなくブルーベースですからね。是非これからもその色のアイシャドウを使ってください」
「へ?」
自分でも呆れてしまうぐらいマヌケな声が出てしまった。
「あれ?パーソナルカラーってご存知ないですか?」
名前ぐらいは聞いたことがあった。
「知ってはいますけどでもどうして…」
何故そんなに詳しいのだろうか。
「初めてお会いした時から思ってたのですが、パーソナルカラーと合ってない色のアイシャドウを使っていて勿体ないなーと」
「勿体ない?」
一体何がだろうか?
「せっかくお綺麗なのに」
「お、お綺麗だなんて…」
信号が丁度赤信号になり、車が止まった。
「本心ですよ」
孝太郎は真剣な顔をして、瑠璃を見つめる。
「そんな…」
瑠璃は咄嗟にそっぽを向いてしまった。
向いた先に丁度、サイドミラーが見えた。
(何回見ても別人のよう)
「洋服も良くお似合いで、それにして正解でした」
信号が青になり、車が動き出す。
「もしかして孝太郎さんが選んでくれたんですか?」
「はい、コスメも俺が選びました」
瑠璃は目を丸くする。
「そ、そうだったんですね。てっきり高橋さんが選んだとばかり思ってました…」
まさか全部孝太郎のチョイスだったとは思ってもなかった。
「あの後、買いに行かれたんですか?」
「ええ、閉店時間ギリギリだったので、間に合ってよかったです」
しかも時間が無い中で選んでこのセンスの良さ。
「孝太郎さんって…なんでも出来るんですね…」
(本当に雲の上の存在だな)
「何言ってるんですか、そんなことはありませんよ」
「あ、そういえばこの洋服やコスメの代金って…」
一体トータルで幾らかかっているのか。
考えるだけで恐ろしくなった。
が、こうして使わせてもらった以上は支払わなければならない。
「ああ、そんなの貰ってください」
孝太郎はサラリと答える。
「いや、それはさすがに…」
特別な日ならいいが、こんな高価なものたちは薄給で万年金欠な自分には分不相応だ。
「いつも仕事を頑張っているんですから、ね?」
「頑張ってるだなんて…毎日淡々とほぼ同じことをしているだけですので…」
電話対応、診察料の計算、院内の清掃などどれもこれももはや習慣になってしまった。
「毎日淡々とほぼ同じことをするって、とても凄いことですよ」
なんだか少し泣きそうになってしまった。
こうして仕事のことを褒められるのはいつぶりだろうか。
だが泣く訳にはいかない。
「外交官の孝太郎さんに比べたら大したことないですって…」
「そういうのは比べるものじゃないですよ」
「そうでしょうか?」
きっと自分なんかは比べ物にならないくらい、強烈なプレッシャーの中、毎日仕事をしているんだろう。
「さてと、到着しましたよ。終わった頃に連絡してください。迎えに行くので」
「なにからなにまですみません…」
瑠璃はシートベルトを外した。
「そんな暗い顔しないでください。今日も仕事頑張ってくださいね」
「…ありがとうございます」
瑠璃は車のドアを閉めた。
と同時に車が発進した。
孝太郎は運転しながら軽く会釈をして、この場を去っていった。
「おはようございます…」
瑠璃は少し自信無さげに挨拶をした。
「おはようございますって、浅田さんどうしたのその格好!それにメイクも!」
「や、やり過ぎでしょうか?」
職場へ行くだけにしては、少しやり過ぎたかもしれないという心配があった。
今日の服装はそれこそ以前、孝太郎と行ったレストランにでもいくようなものだった。
「ううん。とってもよく似合ってるわ。制服に着替えるのが勿体ないくらい」
「ええ、本当に。女優さんみたいよ」
今日は口々に褒められて、頭の中で混乱してしまう。
「おお、浅田。そんなにオシャレして今日はデートか?」
渡辺がニヤニヤしながら聞いてきた。
「ち、違いますよ。ちょっと…イメチェンです」
孝太郎と会った後だと、渡辺のイケメンぷりに驚かなくなる。
それくらい今日の孝太郎はかっこよく見えた。
「にしては、気合入ってるなー」
「本当にただのイメチェンですから!」
瑠璃はそう言うと更衣室へ向かった。
お昼休み。
いつもの様に春香とメールでやり取りしてると、誰からメールが来た。
「え、誰だろう」
確認すると孝太郎からだった。
孝太郎からの初めてのメールにドキドキしながら、本文を読んだ。
「お疲れ様です。本日の夕食はなにがいいですか?」
「夕食はなにがいいって聞いてくるってことはもしかして作ってくれるってこと?」
どれだけハイスペックなのだろうか。
瑠璃はコンビニで買ってきたパンの袋を、じっと見つめた。
普段自炊なんて殆どすることなく、適当にコンビニやスーパーで済ませてしまってる自分が情けなく思えて仕方がなかった。
「なにがいいって言われてもなー」
こういう場合なんて答えるのが無難なんだろうか?
「カレーとか?いやでもそれじゃあ女子力に欠けるか」
うーんと悩んでいるうちに時計は時刻12時55分を指していた。
昼休みまであと5分しかない。
「えっと…」
女子力高そうな食べ物、女子力高そうな食べ物と頭をフル回転させた結果。
「カルボナーラが食べたいです」と返信した。
そして、就業後。
孝太郎に「お疲れ様です。仕事終わりました」の連絡をしてから10分後、病院の前に高級車が停った。
瑠璃はそっと車のドアを開け乗り込む。
「すみません、遅くなりました」
孝太郎が申し訳なさそうに言う。
申し訳ないのはこちらのセリフだ。
「いえ、そんな、お忙しい中ありがとうございます」
「今は暇な時期なので、気にしないでください」
緩やかに車が動き出す。
「浅田さんは今日は何されてたんですか?」
「え?いつも通りです」
今日は待ち時間が長いだとかクレームを言ってくるお客がいなくて助かったぐらいだ。
もっともそんなクレームも滅多に来ないし、本当にいつも通り、変わり映えしない日だった。
「いつも通りっていいですね」
「そうですか?嫌になりますよ」
なんの生産性もない、自分って必要なのかすら思えてくる日々にうんざりしていた。
「いつも通りってことは、無事に今日を終えることができたってことじゃないですか」
そうか、この人は目まぐるしく変化している日常の中で、トラブルの対応などをこなしているんだ。
そう考えるといつも通りって素晴らしいことなのかもしれない。
「確かにそれって素敵なことですね」
瑠璃は微笑みながら言う。
「そうですよ。今日も1日お疲れ様でした」
「孝太郎さんこそお疲れ様です」
「はは。ありがとうございます」
「そうだ、そういえば今日の私の格好をみた職場の先輩たちにびっくりされちゃいました」
いつも通りじゃないことがあったことを思い出す。
「実は俺もびっくりしたんですよ。こんなに変わるんだって」
「えー、そうだったんですか」
「はい、本当に良くお似合いですよ」
「こ、孝太郎さんのチョイスのお陰ですよ…」
今日は本当に褒められっぱなしだな。
こうして和やかな雰囲気で雑談しているうちに、孝太郎の家へと着いた。
「お帰りなさいませ」
車を停めて、降りたと同時に高橋がお辞儀をする。
「ああ、高橋さんただいま」
「ただいま帰りました」
瑠璃も頭を下げる。
「浅田様もお帰りなさいませ。今日の夕飯カルボナーラですよ」
「高橋さんが作られるんですか?」
「はい、私が作らせて頂きます」
(な、なーんだ)
瑠璃は胸を撫で下ろす。
「もう準備は出来ておりますので、どうぞこちらへ」
2人は食堂へ案内された。
案内された食堂は広さは20畳ほどだろうか。
その中心に置かれた8人は座れそうな縦長なテーブルは、大きいはずだがこの部屋の広さでは小さく感じてしまった。
更にテーブルに置いてあるカルボナーラが畳との相性が悪く、見えていて笑いそうになってしまった。
「すみません、私ったらこんな和室に洋食をリクエストするなんて」
こんな純和風な屋敷で、洋食を食べたいだなんてなんて馬鹿げていただろうか。
瑠璃は今更になって反省した。
「気にしないでください。パスタなんて久しぶりに食べるのでわくわくしますよ」
「そうですよ。私も洋食の1品ものなんて何年も作ってないので、腕が鳴りました」
「それならよかったのですが…」
「ささ、冷めないうちに召し上がってくださいませ」
長机の対面上に置かれた座布団に2人は座り、カルボナーラを食べた。
夜。
雨がしとしとと降り出した頃、自室へと戻った瑠璃はシャワーを浴びるための準備をしていた。
「コンタクトも外したし、タオルも持ったし、寝巻きも用意してあるし、よし」
必要なものを準備し終えると、浴室へ向かいシャワーを浴び始めた。
本当はお湯に浸かりたいが、他人の家だ。微々たるものかもしれないが節約したい。
「ああ、さぶっ…」
瑠璃はシャワーを止めシャンプーを泡立てる。
雨が次第に強くなってきた。
「雪じゃないだけまだ寒くないってことか」
瑠璃は再びシャワーを浴び始めた。
「ふう、さっぱりした」
寝巻きに着替え、ハンドタオルで頭を軽く拭く。
と、ポタポタと音がする。
「なんだろう…ってえ!」
部屋が雨漏りしていた。
特に布団を敷いてある辺りがびしょ濡れになっていた。
綿毛布が濡れてるのはもちろん、敷パットまで浸透していた。
「どうしよう…」
さすがにこんな布団で寝る訳にはいかない。
瑠璃は高橋に伝えようと思ったが、夕食を作り終えると帰ってしまうと聞いていたためできない。
「あと他に伝えるとしたら…」
孝太郎しかいなかった。
瑠璃はすっぴんを少しでも誤魔化すためにメガネをかけ、孝太郎にメールをした。
屋敷が広いため、下手に探すよりもメールの方が効率が良かった。
そしてすぐに「わかりました。浅田さんの部屋へ向かいます」との返信が来た。
「よかった、すぐに返信きてくれて」
しばらく待っていると、雨音に消されそうな小さく襖をノックする音が聞こえた。
「はい」
と返事をすると同時に襖が開く。
「大丈夫ですか。浅田さん」
孝太郎は紺の寝巻きに羽織ものを着ていた。
スーツ以外の姿を初めて見た。
(こういうのも似合うんだな)
ぼんやりと孝太郎を見つめる。
「すみません、まさか雨漏りするなんて」
「いえいえ、私もあんな所に布団敷いておいたのが悪いんですし」
枕の位置を移動させたくて、本来敷いてあった場所とは違うところに敷いていた。
「浅田さんはなんにも悪くないですよ。他の部屋に布団がないか探してきます。浅田さんは隣の客室へ移ってください」
というと孝太郎は部屋から出ていき、瑠璃も隣室へ移動するための準備を始めた。
隣室へ向かうと雨漏りはしておらず、部屋の造りはほぼ同じだったが、
「布団がない…」
「あ、浅田さん、こっちの部屋は雨漏りしてなくてよかったです。高橋に連絡をしてみたのですが、布団があるのは浅田さんがいた客室と俺の部屋にしかないみたいで」
「そうなんですね…」
(仕方がない、今日はエアコンの温度を高めにして椅子にでも寝よう)
「俺の布団一式持ってくるので、それを使ってください。俺は椅子で寝るので」
「いえ、私なんかよりも孝太郎さんが…」
多忙な外交官を椅子で寝かせるなんてことはできない。
「女性を椅子に寝かせるようなことはできないです」
「私のことはお気になさらず休んでください」
「そういうわけにはいきません」
「でも…」
お互い1歩も引かない。
「じゃあ、一緒の布団に寝ますか?」
「え?」
孝太郎の思ってもなかった提案に戸惑う。
「それともやっぱり俺の布団で浅田さん1人で寝ますか?」
瑠璃は首を強く振る。
「なら決まりですね」
こうして2人で一緒の布団に寝ることになった。
「こちらです」
と案内された孝太郎の部屋は、黒で統一された落ち着きのある雰囲気だった。
(本当に来ちゃったよ…)
瑠璃は未だに混乱していた。
確かにお互い1歩も譲らない空気ではあったが、だからといって一緒に寝るという選択肢になるとは思ってもなかった。
「俺はまだ仕事が残っているので、先に休んでください」
と言うと、椅子に座り机の上に置いてあった書類に目を通し始めた。
「え!先に、ですか…」
「はい、お気になさらずに」
瑠璃はしばらく孝太郎の姿をぼんやりの眺めていたが、意を決して布団に入ることにした。
布団に入ると、孝太郎が使っているシャンプーかボディーソープのいい匂いがした。
(はぁ…入っちゃった…)
瑠璃は孝太郎に背を向けて、壁をじっと見つめる。
(こんなの寝れるわけない…)
パソコンを立ち上げた音が聞こえた。
カタカタと規則的に打たれるキーの音を聞いていると不思議と心地いい。
瑠璃は少しづつ落ち着いてきた。
そしていつの間にか寝てしまった。
「ん…」
布団がめくられた気がして瑠璃は目を覚ます。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
孝太郎が布団に入ってきた。
一気に目が覚める。
(どうしよう…どうしよう…)
心臓の音が孝太郎に聞こえていたらと不安になる。
「浅田さん、まだ起きてますか?」
暗闇で聞く孝太郎の声は、いつもよりもずっと艶っぽい。
「は、は、はい…」
「どうしてこっちを向いてくれないんですか?」
そんなの恥ずかしいからに決まっている。
「わ、私は異性とこうして寝たことがあまりなくって…」
「俺もですよ」
そんなはずはない。
「だったらどうしてそんなに落ち着いているんですか?」
「落ち着いている?そんなことはありませんよ」
「ほら」と瑠璃の手を掴み、自分の心臓辺りに持っていく。
ドクン、ドクンとものすごい速さで動いているのがわかる。
「孝太郎さんも緊張されてるんですね…」
瑠璃はほっとしたように答える。
「そりゃあ浅田さんと寝るんですから、緊張しますよ。自分で誘っておいて言うのもなんですが」
「たかが私と寝るくらい…」
大したことないだろう。
特別美人でも、なんの取り柄もない自分なのだから。
「そんなこと言わないでください」
まだ握られたままだった手に、ぐっと力が入る。
「綺麗な手ですね」
手を掴んだまま、人差し指で瑠璃の手をなぞる。
「っ…」
瑠璃も繋がれた手に力が入ってしまった。
「ふふ。ですからこっちを向いてください」
孝太郎は握っていた手を離した。
瑠璃は観念して、孝太郎の方を向いた。
「うん、よくできました」
と頬にキスをされた。
「…孝太郎さん、もしかして酔ってますか?」
「酔ってなんかいませんよ。ずっとこうしたかった…」
というと優しく瑠璃を抱きしめる。
(暖かい…けど…)
「これじゃ寝れません…」
「大丈夫ですよ」
今度は瑠璃の頭を撫でる。
「子供扱いしないでください…」
「してませんよ」
「絶対してますって」
「瑠璃さん、敬語で話すの辞めませんか?」
「え?」
突然の孝太郎の提案に瑠璃は固まる。
呼び方も苗字から名前へと変わっていた。
「嫌?」
甘く問われた。
「そんなことは…」
「なら敬語はなしってことで」
「わかりました…じゃないや、わかった…」
「うん」
孝太郎は満足そうに言う。
「…」
「…」
暫く沈黙が続いた。
「あの…」
瑠璃の声は孝太郎の唇に塞がれてしまった。
それは今までしたキスの中で1番心地いいものだった。
ふわりとケーキのスポンジのように柔らかく、吸い付いた唇の感覚が忘れられない。
「もう1回してもいい?」
瑠璃はこくりと頷く。
今度は孝太郎の舌が入ってきた。
「あっ…」
咄嗟に声が漏れる。
「瑠璃の声、聞かせて」
更に孝太郎の舌が絡まってくる。
「ん…」
孝太郎はそのままブラのホックを外し、寝巻の紐をほどく。
「や…」
あられもない姿になった瑠璃は咄嗟に胸を隠す。
「恥ずかしがらないで、全部見せて…」
孝太郎は胸を隠していた手をどかし、そっとキスする。
「恥ずかしい…」
弱々しい声で孝太郎に訴える。
「大丈夫。綺麗だよ」
孝太郎も寝巻きを脱ぎ出した。
「もっと見せて」
月明かりに照らされた2人は官能的な夜を堪能した。
翌日。
瑠璃はコンコンコンと襖をノックする音で目が覚めた。
「う、ううん…」
ふと目を開けると孝太郎の整った顔が目の前にあった。
と同時に昨晩あったことを一気に思い出して真っ赤になる。
コンコンコン。
もう1度襖をノックする音がした。
この状況を見られるのはまずい。
「孝太郎さん、孝太郎さん起きてください」
「…」
瑠璃は孝太郎の筋肉質な身体を揺すりながら声をかけるが返事はない。
「孝太郎様〜?」
襖越しに高橋の声がする。
「起きて〜」
瑠璃はさらに激しく孝太郎を揺する。
それでも孝太郎は起きない。
この状態を見られたらどうしようと瑠璃は焦る。
「失礼致します」
高橋が襖を開ける。
と同時に布団を巻き付けただけの瑠璃と目が合った。
「あ、浅田様!これは大変失礼致しました」
慌てて襖を閉める音が響いた。
(み、見られてしまった…。完全に勘違いされた)
昨晩のはただの勢いでなった出来事だ。
もう忘れよう。
それなのに隣で眠る孝太郎の姿を見ると、ドキドキしておかしくなりそうだった。
「とりあえずなにか着ないとな…」
瑠璃は布団から出ようとすると、
「きゃあ!」
孝太郎に腕を掴まれ、抱きしめられた。
「おはよう、瑠璃」
「お、おはようございます…」
「敬語に戻ってるよ」
「あー、うん…あはは…。そ、そろそろ準備しないと…」
「すっぴんも可愛いね」
おでこにキスをされた。
「か、からかわないで…」
「本心なのにな」
孝太郎は残念と肩を竦める。
「私、準備したいんだけど…」
瑠璃が困ったように言うと、孝太郎の抱きしめていた腕が緩む。
瑠璃は今度こそ布団から出て、散らばった下着をいそいそと付け始める。
「今日も送っていくよ」
孝太郎は瑠璃を後ろから抱きしめる。
「え、ああ、ありがとう…」
「こっち向いて」
「…っ」
耳元で囁かれる。
孝太郎の甘い声を聞くと、それに従わないといけない気がしてしまう。
瑠璃は孝太郎の方を向く。
「うん、いい子だね」
孝太郎は瑠璃の唇を奪う。
孝太郎と一緒だと心臓によくない。
瑠璃は大慌てで散らばった自分の衣服を着て、孝太郎の部屋を後にした。
孝太郎の部屋を後にした瑠璃は化粧品や着替えなどは置きっぱなしになっていたため、昨日使う予定だった客室へ向かった。
すぐにメイクして着替えなければと急ぎ足で廊下を歩いていると
「浅田様、先程は失礼致しました」
後ろから声をかけられ、振り返ると高橋がいた。
「高橋さん!あれはその…」
「孝太郎様も遂に恋人をお連れになってくださったと思うと嬉しくて、嬉しくて」
あたふたしてる瑠璃を他所に、高橋は目に薄ら涙を浮かべている。
(完全に勘違いされたままだ…)
だが、あまりにも嬉しそうな高橋の表情を見ると「あれは誤解です」とは言い難い。
「お2人はいつからお付き合いされてるんですか?」
「えっと…その…」
「パリで出会ったんだよ」
凛とした声が響いた。
孝太郎は瑠璃の肩に手を置き「これは俺の女です」と言わんばかりの自信に満ちていた。
身支度はもう整えたそうで、いつも通りスーツ姿だった。
「まあまあ、そうだったんですね。孝太郎様ったらなんにもお話してくださらないんですから」
「ああ、悪かったな。これから父さんにも伝える予定だよ」
「えっ?伝えるって何を」
「俺たちの結婚のこと」
孝太郎はサラリと答える。
「「結婚!?」」
瑠璃と高橋は声を荒らげる。
「そんな…結婚だなんて…」
「おめでとうございます!浅田様、いや、瑠璃様、孝太郎様!」
「ありがとう。それじゃあ行こうか瑠璃」
孝太郎は瑠璃の腰に手を回し、客室へ向かって歩き出す。
「あの…結婚って?」
なにの冗談でしょ?とでも言いたげな瑠璃の口調だったが孝太郎は真剣な口調で
「本気ですよ」
瑠璃を真っ直ぐ見つめる。
「そんないきなり言われても…」
「答えは待ちます。ただ絶対惚れさせてみせます」
孝太郎は瑠璃の手を握ると、手の甲にキスをする。
「…っ」
「さぁ、客室に着いたよ。準備済ませておいで」
「…わかった」
瑠璃は客室の襖を開け、準備を済まし、孝太郎の車に乗った。
起きた時刻は7時40分。
あんなに早く起きないとなと意気込んでいたいのに、盛大に寝坊してしまった。
が、「うわーどうしよう」
瑠璃は何よりもメイク道具一式や着替えがないことに気がついた。
箪笥を開けてみると、見るからに上質な着物と足袋が山ほどはいっているだけで洋服は1つもなかった。
「スッピンは流石にまずいし…かといってメイクしようにも道具なんて何にもないし」
寝癖をドライヤーで直しながら、あれやこれやと考えているうちに
「おはようございます、浅田様」
正座をして上品に頭を下げる、高橋の姿が鏡越しに見えた。
瑠璃はドライヤーをかけるのをやめると、こちらもその場で正座して
「お、おはようございます」
顔を見られないように素早く頭を下げた。
「お化粧品がおいてなかったと思われたので、持って参りました」
「ホントですか?!助かります」
「あとはお着替えと靴も」
「え!嘘…ありがとうございます」
と、ここでようやく顔を上げると高橋と目が合った。
「…!浅田様、スッピンの方がお綺麗ですよ」
「いやいや、それはさすがに…」
瑠璃は自分がメイクが苦手なのを自覚していた。
かといって、毎回数万円分を顔に塗っているのに何も塗ってない方が綺麗と言われるのは中々ショックだった。
「本当ですよ。さあ、身なりを整え下さいませ。孝太郎様がお待ちですよ」
「孝太郎さんが?」
瑠璃が聞き返すと
「職場まで送ってくださるそうですよ」
「ええ?!」
それはいくらなんでも申し訳ない。
「いえ、私1人で行けます」
「そう仰らずに。沢山甘えてくださいませ」
ふふふと、高崎はどこか嬉しそうに答える。
「それでは」
と襖を閉めて出ていってしまった。
「と、とりあえず早く準備しないとな」
瑠璃は持ってきてもらった化粧品一式を確認すると、どれもこれもデパートで売ってるものだった。
「もしかして昨日大至急買ってきてくれたのかな?」
とアイシャドウパレットをみると。
「うわー、普段私が絶対使わない色だ…」
いつもはイエローやオレンジなどはっきりとした色のアイシャドウを使っていたが、パレットに入ってた色はラベンダーやブルー、グレーなど淡い色だった。
こればかりは仕方がない。
自分を納得させてアイシャドウを目元にのせると
「あれ?」
なんだか普段よりも肌馴染みがいい気がした。
「流石はデパコス」
と関心しながらメイクをしていくと
「出来た…」
そこにはいつもよりも格段に垢抜けた自分が映ってた。
ふわふわの眉毛に、普段の倍はくるんとした睫毛が彩るのはいつもよりも大きな瞳。
ハイライトの艶も素晴らしく、肌が数段階綺麗に見えた。
「すごいすごい〜。これがデパコスの力か〜」
感動して鏡をみる。
「って、見惚れてる場合じゃなかった」
今度は渡された洋服の方を見てみると
「わ〜」
全て借りたハンカチと同じブランド、PINKYCATのものだった。
「これって、スカートだけで2、3万はするんじゃ…」
確か以前デパートで立ち寄った際、値札にはどれもこれも数万円と書いてあった。
「まさかここの服を着る機会がくるとは…」
瑠璃は袖を通す度に心の中で(ありがとうございます。ありがとうございます…)と感謝していた。
そして、着替えが完了した。
「うっわ〜、本当に私なの?」
鏡に映った自分はいつもよりも洗練された、どこか近寄り難い印象すら与える女性へなっていた。
全て自分で行ったのに、まるでプロのスタイリストにおまかせしたかのような仕上がりだった。
いつまでも鏡を見ていたいが、そうしてもいられない。
瑠璃は用意されたパンプスを持って、襖を開け、早歩きで玄関へと向かった。
「お待たせしました」
瑠璃は軽く頭を下げながら、孝太郎の車へ乗り込む。
「気にしないでください。ああ、やっぱり浅田さんにはそういう色のアイシャドウがよく似合いますね」
「そうですか?ありがとうございます…高橋さんのチョイスのお陰です」
最初はどうなるかと思いきやこんなに綺麗にまとまるなんて。
「浅田さんはイエローベースではなくブルーベースですからね。是非これからもその色のアイシャドウを使ってください」
「へ?」
自分でも呆れてしまうぐらいマヌケな声が出てしまった。
「あれ?パーソナルカラーってご存知ないですか?」
名前ぐらいは聞いたことがあった。
「知ってはいますけどでもどうして…」
何故そんなに詳しいのだろうか。
「初めてお会いした時から思ってたのですが、パーソナルカラーと合ってない色のアイシャドウを使っていて勿体ないなーと」
「勿体ない?」
一体何がだろうか?
「せっかくお綺麗なのに」
「お、お綺麗だなんて…」
信号が丁度赤信号になり、車が止まった。
「本心ですよ」
孝太郎は真剣な顔をして、瑠璃を見つめる。
「そんな…」
瑠璃は咄嗟にそっぽを向いてしまった。
向いた先に丁度、サイドミラーが見えた。
(何回見ても別人のよう)
「洋服も良くお似合いで、それにして正解でした」
信号が青になり、車が動き出す。
「もしかして孝太郎さんが選んでくれたんですか?」
「はい、コスメも俺が選びました」
瑠璃は目を丸くする。
「そ、そうだったんですね。てっきり高橋さんが選んだとばかり思ってました…」
まさか全部孝太郎のチョイスだったとは思ってもなかった。
「あの後、買いに行かれたんですか?」
「ええ、閉店時間ギリギリだったので、間に合ってよかったです」
しかも時間が無い中で選んでこのセンスの良さ。
「孝太郎さんって…なんでも出来るんですね…」
(本当に雲の上の存在だな)
「何言ってるんですか、そんなことはありませんよ」
「あ、そういえばこの洋服やコスメの代金って…」
一体トータルで幾らかかっているのか。
考えるだけで恐ろしくなった。
が、こうして使わせてもらった以上は支払わなければならない。
「ああ、そんなの貰ってください」
孝太郎はサラリと答える。
「いや、それはさすがに…」
特別な日ならいいが、こんな高価なものたちは薄給で万年金欠な自分には分不相応だ。
「いつも仕事を頑張っているんですから、ね?」
「頑張ってるだなんて…毎日淡々とほぼ同じことをしているだけですので…」
電話対応、診察料の計算、院内の清掃などどれもこれももはや習慣になってしまった。
「毎日淡々とほぼ同じことをするって、とても凄いことですよ」
なんだか少し泣きそうになってしまった。
こうして仕事のことを褒められるのはいつぶりだろうか。
だが泣く訳にはいかない。
「外交官の孝太郎さんに比べたら大したことないですって…」
「そういうのは比べるものじゃないですよ」
「そうでしょうか?」
きっと自分なんかは比べ物にならないくらい、強烈なプレッシャーの中、毎日仕事をしているんだろう。
「さてと、到着しましたよ。終わった頃に連絡してください。迎えに行くので」
「なにからなにまですみません…」
瑠璃はシートベルトを外した。
「そんな暗い顔しないでください。今日も仕事頑張ってくださいね」
「…ありがとうございます」
瑠璃は車のドアを閉めた。
と同時に車が発進した。
孝太郎は運転しながら軽く会釈をして、この場を去っていった。
「おはようございます…」
瑠璃は少し自信無さげに挨拶をした。
「おはようございますって、浅田さんどうしたのその格好!それにメイクも!」
「や、やり過ぎでしょうか?」
職場へ行くだけにしては、少しやり過ぎたかもしれないという心配があった。
今日の服装はそれこそ以前、孝太郎と行ったレストランにでもいくようなものだった。
「ううん。とってもよく似合ってるわ。制服に着替えるのが勿体ないくらい」
「ええ、本当に。女優さんみたいよ」
今日は口々に褒められて、頭の中で混乱してしまう。
「おお、浅田。そんなにオシャレして今日はデートか?」
渡辺がニヤニヤしながら聞いてきた。
「ち、違いますよ。ちょっと…イメチェンです」
孝太郎と会った後だと、渡辺のイケメンぷりに驚かなくなる。
それくらい今日の孝太郎はかっこよく見えた。
「にしては、気合入ってるなー」
「本当にただのイメチェンですから!」
瑠璃はそう言うと更衣室へ向かった。
お昼休み。
いつもの様に春香とメールでやり取りしてると、誰からメールが来た。
「え、誰だろう」
確認すると孝太郎からだった。
孝太郎からの初めてのメールにドキドキしながら、本文を読んだ。
「お疲れ様です。本日の夕食はなにがいいですか?」
「夕食はなにがいいって聞いてくるってことはもしかして作ってくれるってこと?」
どれだけハイスペックなのだろうか。
瑠璃はコンビニで買ってきたパンの袋を、じっと見つめた。
普段自炊なんて殆どすることなく、適当にコンビニやスーパーで済ませてしまってる自分が情けなく思えて仕方がなかった。
「なにがいいって言われてもなー」
こういう場合なんて答えるのが無難なんだろうか?
「カレーとか?いやでもそれじゃあ女子力に欠けるか」
うーんと悩んでいるうちに時計は時刻12時55分を指していた。
昼休みまであと5分しかない。
「えっと…」
女子力高そうな食べ物、女子力高そうな食べ物と頭をフル回転させた結果。
「カルボナーラが食べたいです」と返信した。
そして、就業後。
孝太郎に「お疲れ様です。仕事終わりました」の連絡をしてから10分後、病院の前に高級車が停った。
瑠璃はそっと車のドアを開け乗り込む。
「すみません、遅くなりました」
孝太郎が申し訳なさそうに言う。
申し訳ないのはこちらのセリフだ。
「いえ、そんな、お忙しい中ありがとうございます」
「今は暇な時期なので、気にしないでください」
緩やかに車が動き出す。
「浅田さんは今日は何されてたんですか?」
「え?いつも通りです」
今日は待ち時間が長いだとかクレームを言ってくるお客がいなくて助かったぐらいだ。
もっともそんなクレームも滅多に来ないし、本当にいつも通り、変わり映えしない日だった。
「いつも通りっていいですね」
「そうですか?嫌になりますよ」
なんの生産性もない、自分って必要なのかすら思えてくる日々にうんざりしていた。
「いつも通りってことは、無事に今日を終えることができたってことじゃないですか」
そうか、この人は目まぐるしく変化している日常の中で、トラブルの対応などをこなしているんだ。
そう考えるといつも通りって素晴らしいことなのかもしれない。
「確かにそれって素敵なことですね」
瑠璃は微笑みながら言う。
「そうですよ。今日も1日お疲れ様でした」
「孝太郎さんこそお疲れ様です」
「はは。ありがとうございます」
「そうだ、そういえば今日の私の格好をみた職場の先輩たちにびっくりされちゃいました」
いつも通りじゃないことがあったことを思い出す。
「実は俺もびっくりしたんですよ。こんなに変わるんだって」
「えー、そうだったんですか」
「はい、本当に良くお似合いですよ」
「こ、孝太郎さんのチョイスのお陰ですよ…」
今日は本当に褒められっぱなしだな。
こうして和やかな雰囲気で雑談しているうちに、孝太郎の家へと着いた。
「お帰りなさいませ」
車を停めて、降りたと同時に高橋がお辞儀をする。
「ああ、高橋さんただいま」
「ただいま帰りました」
瑠璃も頭を下げる。
「浅田様もお帰りなさいませ。今日の夕飯カルボナーラですよ」
「高橋さんが作られるんですか?」
「はい、私が作らせて頂きます」
(な、なーんだ)
瑠璃は胸を撫で下ろす。
「もう準備は出来ておりますので、どうぞこちらへ」
2人は食堂へ案内された。
案内された食堂は広さは20畳ほどだろうか。
その中心に置かれた8人は座れそうな縦長なテーブルは、大きいはずだがこの部屋の広さでは小さく感じてしまった。
更にテーブルに置いてあるカルボナーラが畳との相性が悪く、見えていて笑いそうになってしまった。
「すみません、私ったらこんな和室に洋食をリクエストするなんて」
こんな純和風な屋敷で、洋食を食べたいだなんてなんて馬鹿げていただろうか。
瑠璃は今更になって反省した。
「気にしないでください。パスタなんて久しぶりに食べるのでわくわくしますよ」
「そうですよ。私も洋食の1品ものなんて何年も作ってないので、腕が鳴りました」
「それならよかったのですが…」
「ささ、冷めないうちに召し上がってくださいませ」
長机の対面上に置かれた座布団に2人は座り、カルボナーラを食べた。
夜。
雨がしとしとと降り出した頃、自室へと戻った瑠璃はシャワーを浴びるための準備をしていた。
「コンタクトも外したし、タオルも持ったし、寝巻きも用意してあるし、よし」
必要なものを準備し終えると、浴室へ向かいシャワーを浴び始めた。
本当はお湯に浸かりたいが、他人の家だ。微々たるものかもしれないが節約したい。
「ああ、さぶっ…」
瑠璃はシャワーを止めシャンプーを泡立てる。
雨が次第に強くなってきた。
「雪じゃないだけまだ寒くないってことか」
瑠璃は再びシャワーを浴び始めた。
「ふう、さっぱりした」
寝巻きに着替え、ハンドタオルで頭を軽く拭く。
と、ポタポタと音がする。
「なんだろう…ってえ!」
部屋が雨漏りしていた。
特に布団を敷いてある辺りがびしょ濡れになっていた。
綿毛布が濡れてるのはもちろん、敷パットまで浸透していた。
「どうしよう…」
さすがにこんな布団で寝る訳にはいかない。
瑠璃は高橋に伝えようと思ったが、夕食を作り終えると帰ってしまうと聞いていたためできない。
「あと他に伝えるとしたら…」
孝太郎しかいなかった。
瑠璃はすっぴんを少しでも誤魔化すためにメガネをかけ、孝太郎にメールをした。
屋敷が広いため、下手に探すよりもメールの方が効率が良かった。
そしてすぐに「わかりました。浅田さんの部屋へ向かいます」との返信が来た。
「よかった、すぐに返信きてくれて」
しばらく待っていると、雨音に消されそうな小さく襖をノックする音が聞こえた。
「はい」
と返事をすると同時に襖が開く。
「大丈夫ですか。浅田さん」
孝太郎は紺の寝巻きに羽織ものを着ていた。
スーツ以外の姿を初めて見た。
(こういうのも似合うんだな)
ぼんやりと孝太郎を見つめる。
「すみません、まさか雨漏りするなんて」
「いえいえ、私もあんな所に布団敷いておいたのが悪いんですし」
枕の位置を移動させたくて、本来敷いてあった場所とは違うところに敷いていた。
「浅田さんはなんにも悪くないですよ。他の部屋に布団がないか探してきます。浅田さんは隣の客室へ移ってください」
というと孝太郎は部屋から出ていき、瑠璃も隣室へ移動するための準備を始めた。
隣室へ向かうと雨漏りはしておらず、部屋の造りはほぼ同じだったが、
「布団がない…」
「あ、浅田さん、こっちの部屋は雨漏りしてなくてよかったです。高橋に連絡をしてみたのですが、布団があるのは浅田さんがいた客室と俺の部屋にしかないみたいで」
「そうなんですね…」
(仕方がない、今日はエアコンの温度を高めにして椅子にでも寝よう)
「俺の布団一式持ってくるので、それを使ってください。俺は椅子で寝るので」
「いえ、私なんかよりも孝太郎さんが…」
多忙な外交官を椅子で寝かせるなんてことはできない。
「女性を椅子に寝かせるようなことはできないです」
「私のことはお気になさらず休んでください」
「そういうわけにはいきません」
「でも…」
お互い1歩も引かない。
「じゃあ、一緒の布団に寝ますか?」
「え?」
孝太郎の思ってもなかった提案に戸惑う。
「それともやっぱり俺の布団で浅田さん1人で寝ますか?」
瑠璃は首を強く振る。
「なら決まりですね」
こうして2人で一緒の布団に寝ることになった。
「こちらです」
と案内された孝太郎の部屋は、黒で統一された落ち着きのある雰囲気だった。
(本当に来ちゃったよ…)
瑠璃は未だに混乱していた。
確かにお互い1歩も譲らない空気ではあったが、だからといって一緒に寝るという選択肢になるとは思ってもなかった。
「俺はまだ仕事が残っているので、先に休んでください」
と言うと、椅子に座り机の上に置いてあった書類に目を通し始めた。
「え!先に、ですか…」
「はい、お気になさらずに」
瑠璃はしばらく孝太郎の姿をぼんやりの眺めていたが、意を決して布団に入ることにした。
布団に入ると、孝太郎が使っているシャンプーかボディーソープのいい匂いがした。
(はぁ…入っちゃった…)
瑠璃は孝太郎に背を向けて、壁をじっと見つめる。
(こんなの寝れるわけない…)
パソコンを立ち上げた音が聞こえた。
カタカタと規則的に打たれるキーの音を聞いていると不思議と心地いい。
瑠璃は少しづつ落ち着いてきた。
そしていつの間にか寝てしまった。
「ん…」
布団がめくられた気がして瑠璃は目を覚ます。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
孝太郎が布団に入ってきた。
一気に目が覚める。
(どうしよう…どうしよう…)
心臓の音が孝太郎に聞こえていたらと不安になる。
「浅田さん、まだ起きてますか?」
暗闇で聞く孝太郎の声は、いつもよりもずっと艶っぽい。
「は、は、はい…」
「どうしてこっちを向いてくれないんですか?」
そんなの恥ずかしいからに決まっている。
「わ、私は異性とこうして寝たことがあまりなくって…」
「俺もですよ」
そんなはずはない。
「だったらどうしてそんなに落ち着いているんですか?」
「落ち着いている?そんなことはありませんよ」
「ほら」と瑠璃の手を掴み、自分の心臓辺りに持っていく。
ドクン、ドクンとものすごい速さで動いているのがわかる。
「孝太郎さんも緊張されてるんですね…」
瑠璃はほっとしたように答える。
「そりゃあ浅田さんと寝るんですから、緊張しますよ。自分で誘っておいて言うのもなんですが」
「たかが私と寝るくらい…」
大したことないだろう。
特別美人でも、なんの取り柄もない自分なのだから。
「そんなこと言わないでください」
まだ握られたままだった手に、ぐっと力が入る。
「綺麗な手ですね」
手を掴んだまま、人差し指で瑠璃の手をなぞる。
「っ…」
瑠璃も繋がれた手に力が入ってしまった。
「ふふ。ですからこっちを向いてください」
孝太郎は握っていた手を離した。
瑠璃は観念して、孝太郎の方を向いた。
「うん、よくできました」
と頬にキスをされた。
「…孝太郎さん、もしかして酔ってますか?」
「酔ってなんかいませんよ。ずっとこうしたかった…」
というと優しく瑠璃を抱きしめる。
(暖かい…けど…)
「これじゃ寝れません…」
「大丈夫ですよ」
今度は瑠璃の頭を撫でる。
「子供扱いしないでください…」
「してませんよ」
「絶対してますって」
「瑠璃さん、敬語で話すの辞めませんか?」
「え?」
突然の孝太郎の提案に瑠璃は固まる。
呼び方も苗字から名前へと変わっていた。
「嫌?」
甘く問われた。
「そんなことは…」
「なら敬語はなしってことで」
「わかりました…じゃないや、わかった…」
「うん」
孝太郎は満足そうに言う。
「…」
「…」
暫く沈黙が続いた。
「あの…」
瑠璃の声は孝太郎の唇に塞がれてしまった。
それは今までしたキスの中で1番心地いいものだった。
ふわりとケーキのスポンジのように柔らかく、吸い付いた唇の感覚が忘れられない。
「もう1回してもいい?」
瑠璃はこくりと頷く。
今度は孝太郎の舌が入ってきた。
「あっ…」
咄嗟に声が漏れる。
「瑠璃の声、聞かせて」
更に孝太郎の舌が絡まってくる。
「ん…」
孝太郎はそのままブラのホックを外し、寝巻の紐をほどく。
「や…」
あられもない姿になった瑠璃は咄嗟に胸を隠す。
「恥ずかしがらないで、全部見せて…」
孝太郎は胸を隠していた手をどかし、そっとキスする。
「恥ずかしい…」
弱々しい声で孝太郎に訴える。
「大丈夫。綺麗だよ」
孝太郎も寝巻きを脱ぎ出した。
「もっと見せて」
月明かりに照らされた2人は官能的な夜を堪能した。
翌日。
瑠璃はコンコンコンと襖をノックする音で目が覚めた。
「う、ううん…」
ふと目を開けると孝太郎の整った顔が目の前にあった。
と同時に昨晩あったことを一気に思い出して真っ赤になる。
コンコンコン。
もう1度襖をノックする音がした。
この状況を見られるのはまずい。
「孝太郎さん、孝太郎さん起きてください」
「…」
瑠璃は孝太郎の筋肉質な身体を揺すりながら声をかけるが返事はない。
「孝太郎様〜?」
襖越しに高橋の声がする。
「起きて〜」
瑠璃はさらに激しく孝太郎を揺する。
それでも孝太郎は起きない。
この状態を見られたらどうしようと瑠璃は焦る。
「失礼致します」
高橋が襖を開ける。
と同時に布団を巻き付けただけの瑠璃と目が合った。
「あ、浅田様!これは大変失礼致しました」
慌てて襖を閉める音が響いた。
(み、見られてしまった…。完全に勘違いされた)
昨晩のはただの勢いでなった出来事だ。
もう忘れよう。
それなのに隣で眠る孝太郎の姿を見ると、ドキドキしておかしくなりそうだった。
「とりあえずなにか着ないとな…」
瑠璃は布団から出ようとすると、
「きゃあ!」
孝太郎に腕を掴まれ、抱きしめられた。
「おはよう、瑠璃」
「お、おはようございます…」
「敬語に戻ってるよ」
「あー、うん…あはは…。そ、そろそろ準備しないと…」
「すっぴんも可愛いね」
おでこにキスをされた。
「か、からかわないで…」
「本心なのにな」
孝太郎は残念と肩を竦める。
「私、準備したいんだけど…」
瑠璃が困ったように言うと、孝太郎の抱きしめていた腕が緩む。
瑠璃は今度こそ布団から出て、散らばった下着をいそいそと付け始める。
「今日も送っていくよ」
孝太郎は瑠璃を後ろから抱きしめる。
「え、ああ、ありがとう…」
「こっち向いて」
「…っ」
耳元で囁かれる。
孝太郎の甘い声を聞くと、それに従わないといけない気がしてしまう。
瑠璃は孝太郎の方を向く。
「うん、いい子だね」
孝太郎は瑠璃の唇を奪う。
孝太郎と一緒だと心臓によくない。
瑠璃は大慌てで散らばった自分の衣服を着て、孝太郎の部屋を後にした。
孝太郎の部屋を後にした瑠璃は化粧品や着替えなどは置きっぱなしになっていたため、昨日使う予定だった客室へ向かった。
すぐにメイクして着替えなければと急ぎ足で廊下を歩いていると
「浅田様、先程は失礼致しました」
後ろから声をかけられ、振り返ると高橋がいた。
「高橋さん!あれはその…」
「孝太郎様も遂に恋人をお連れになってくださったと思うと嬉しくて、嬉しくて」
あたふたしてる瑠璃を他所に、高橋は目に薄ら涙を浮かべている。
(完全に勘違いされたままだ…)
だが、あまりにも嬉しそうな高橋の表情を見ると「あれは誤解です」とは言い難い。
「お2人はいつからお付き合いされてるんですか?」
「えっと…その…」
「パリで出会ったんだよ」
凛とした声が響いた。
孝太郎は瑠璃の肩に手を置き「これは俺の女です」と言わんばかりの自信に満ちていた。
身支度はもう整えたそうで、いつも通りスーツ姿だった。
「まあまあ、そうだったんですね。孝太郎様ったらなんにもお話してくださらないんですから」
「ああ、悪かったな。これから父さんにも伝える予定だよ」
「えっ?伝えるって何を」
「俺たちの結婚のこと」
孝太郎はサラリと答える。
「「結婚!?」」
瑠璃と高橋は声を荒らげる。
「そんな…結婚だなんて…」
「おめでとうございます!浅田様、いや、瑠璃様、孝太郎様!」
「ありがとう。それじゃあ行こうか瑠璃」
孝太郎は瑠璃の腰に手を回し、客室へ向かって歩き出す。
「あの…結婚って?」
なにの冗談でしょ?とでも言いたげな瑠璃の口調だったが孝太郎は真剣な口調で
「本気ですよ」
瑠璃を真っ直ぐ見つめる。
「そんないきなり言われても…」
「答えは待ちます。ただ絶対惚れさせてみせます」
孝太郎は瑠璃の手を握ると、手の甲にキスをする。
「…っ」
「さぁ、客室に着いたよ。準備済ませておいで」
「…わかった」
瑠璃は客室の襖を開け、準備を済まし、孝太郎の車に乗った。