この恋は突然に… 〜エリート外交官に見初められて〜
孝太郎の車が瑠璃の職場へ着いた。
「着いたよ」
「ありがとう…」
「元気ないね。どうかしたの?」
孝太郎は瑠璃の頬に触れようとしたが、バシッとその手を叩く。
「…なんでもない」
瑠璃は浮かない顔をして、車を降りた。
車の窓が開く。
「終わったら連絡して。また迎えに行くから」
「うん…」
(こんなに優しくしてもらってるのにな…)
せっかく両思いになれたのに、瑠璃の表情は曇っていた。
素敵な王子様だった彼が両思いになった途端、蛙のように醜く見えてしまう-
瑠璃は蛙化現象に陥っていた。
「おはようございます…」
魂が抜けたような声でドアを開ける。
「おはよう、浅田さんどうかしたの?ってあら今日も素敵な格好ね」
「いや、特には…」
イケメン外交官にプロポーズされて、戸惑ってるなんて言えるわけなかった。
瑠璃は更衣室へ向かい制服に着替えると、いつものように仕事を始めた。
昼休み。
近くのコンビニで買ってきたパンを食べながらぼんやりと考える。
(私が孝太郎さんと結婚…)
まずは孝太郎のことが本当に好きなのを自分に問いてみた。
客観的に見て孝太郎は魅力的だった。
容姿端麗なのはもちろん優しいし、頼りにもなる外交官。
こんな人物探せといったって中々見つからない。
そんな人物だ。
そんな人がなんの取り柄もない自分と釣り合うわけが無い…
そもそも孝太郎はこんな自分のどこを好きになったのだろうか?
いやそもそも-
考えれば考えるほど混乱していくばかりだった。
「はぁ…どうしたらいいんだろう…」
と、スマホが鳴った。
「孝太郎さんからかな…」
また今晩のメニューについてかと思っていたら、春香からだった。
「今晩暇?」
また春香に相談してみるのもいいかもしれない。
瑠璃は「暇だよ」と返信をした。
そして孝太郎には「お疲れ様です。今日は友達と会ってくるので自力で帰ります」とメールをした。
「ええ、イケメン外交官にプロポーズされた!?」
「ちょ、春香、声が大きい」
「ごめんごめん」
あれから瑠璃と春香はいきつけのカフェに来ていた。
いつものようにドリアとドリンクバーを頼むと、瑠璃は早速近状を話した。
「しかもイケメン外交官の家にお世話になってるってどういうことよ。いくら自宅が家事になったからって」
「そうだよね…甘えすぎだよね」
瑠璃は申し訳なさそうに言う。
「その洋服もコスメもみんなイケメン外交官に買ってもらったんでしょ」
瑠璃はこくりと頷く。
おそらく本当に全身デパート御用達コーデの人間が、こんな庶民的なカフェだなんてこないだろうが。
「あーいいなー、そんな人とお近付きになりたかったぁー」
「あはは…」
「瑠璃!」
「な、何?!」
春香は瑠璃の手をがっちりと握ると、真っ直ぐに見つめて
「ぜっっったいその人逃しちゃ駄目だからね!」
「う、うん…」
瑠璃は曖昧に返事をする。
「あー、またどうせ両思いになった途端、彼の好意を喜べなくなってるんでしょ?」
「うん…」
春香にはなんでもお見通しだった。
「なんで両思いになったのに素直に喜べないんかなー」
「私もよくわからなくって…しかもいきなり結婚だなんて…」
「いきなり結婚に驚くのはわかるよ。でもそれと好意に喜べなくなるのは別じゃん?」
「そうだね…」
自分に好意を向けられる度、私は貴方が思ってるような素敵な人じゃないと避けてしまう。
学生時代も何度もこういう事があった。
「私だったら好きな人からの好意なんて嬉しくて嬉しくて仕方ないけどなー」
「嬉しいには嬉しいんだけど…」
どこか心の中で引っかかってしまう。
自分は好かれたくていい子の振りをしているだけで、本当はもっと醜くくてどうしようもないやつなのに-
と、スマホが鳴った。
確認してみると孝太郎からだった。
「お疲れ様、どこの店?終わり次第連絡してくれ。迎えに行くから」
孝太郎はどこまでも優しかった。
その優しさが瑠璃を傷つける。
「結構です。自力で帰りますので」
と返信した。
「瑠璃、彼からメール?」
「うん、迎えに来るって」
「えー送り迎えまでしてもらってるの?いいなー。こっちは毎日満員電車だっていうのにさー」
「でも断ったから」
「断ったぁ?!なんでよ」
春香が信じられないという顔をしている。
「も、申し訳ないから…」
それに孝太郎と顔を合わせるのも気まずかった。
「相手からの好意なんだから、素直に甘えればいいのに」
「それが出来たら苦労しないよ…」
瑠璃はオレンジジュースを1口飲む。
「それじゃあいつまで経っても学生の頃のまんまだよ。それでいいの?」
高校生からの付き合いがある春香はよく知っていた。
「よく、ない、です…」
「ならとことん好意に甘えるべきでしょ」
「うん…」
瑠璃も今回は成就させたかった。
他の誰でもない孝太郎と。
「ほら、ウダウダ考えてないでやっぱり迎えに来てくださいってメール送る」
瑠璃は言われた通りにメールを送った。
こうして今日はお開きになった。
お店の前で待ってること数分、目の前に馴染みのある高級車が止まった。
瑠璃は助手席のドアを恐る恐る開けた。
「お疲れ様」
孝太郎は爽やかな笑顔を向ける。
「お疲れ様…今日も迎えに来てくれてありがとう」
「いいよ、そんなの気にしないで」
車が発進する。
「今日はどうだった?」
「あー、仕事の方はいつも通りだよ。あとは友達とご飯食べてきたぐらいかな」
「友達って女性?それとも…」
「じょ、女性だって!男性で一緒にご飯食べる仲の人なんていないから!」
「はは。そんなに否定しなくったていいのに」
「…っ、それもそうだね…」
「もしも男性と食べてきたなんて言ったら、嫉妬するなー」
「嫉妬って…そんな大袈裟な…」
「瑠璃は俺が他の女性と食事してたら嫉妬しない?」
「それは…」
するに決まっている。
「するの?しないの?」
孝太郎は心底嬉しそうに聞いてくる。
「し、し、します…」
「うん。そうだよね」
と頭を撫でられる。
「今日も仕事が残ってるから先に寝てて」
「え!今日も一緒に寝るの?!」
「え、そのつもりだったんだけど…嫌だった?」
「…」
嫌ではなかった。
ただ今朝のことがあって気まずいだけだった。
孝太郎はそのことについてはもうなんとも思ってないのだろうか。
ちらりと孝太郎の横顔を見ると、特に気にした様子もなく普通だった。
(相変わらずかっこいな…)
なんてぼんやりと眺めていると
「瑠璃?」
信号が赤になり車が止まる。
孝太郎と目が合った。
「な、なんでもない…」
瑠璃は咄嗟に逸らしてしまう。
それからお互い無言になってしまった。
そして車が屋敷に着いた。
隣にはなにやら別の高級車が2台ほど停まっていた。
「おかえりなさいませ、瑠璃様、孝太郎様」
いつもように高橋が出迎えてくれた。
「ああ、ただいま」
「ただいま帰りました」
高橋の姿を見ると、ほっとする自分がいたのに驚いた。
「本日は総一郎様とそのお客様がいらっしゃってますよ」
「父さんが?」
孝太郎が眉をひそめる。
「はい、大事な人お話があるとか」
「わかった。瑠璃、先に俺の部屋へ行っててくれ」
「うん」
「失礼致します」
孝太郎は静かに襖を開ける。
「おお、孝太郎久しぶりだな」
「初めましてぇ〜、キャー写真よりかっこいいぃ〜」
その隣でニコニコ笑う美少女がいた。
孝太郎は嫌な予感がした。
「こちらの女性は?」
「あっ、申し遅れましたぁ〜、あたしぃ〜早乙女姫華(さおとめひめか)ですぅ〜」
「ああ、早乙女財閥のご令嬢でしたか」
早乙女財閥といえば日本全国だけでなく、海外にも進出している大手企業だ。
「姫華の事ご存知なんですねぇ〜。嬉しいぃ〜」
姫華はキャッキャッとはしゃぐ。
「そのご令嬢がどうしてここに?」
「ふむ。他でもない結婚の話だ」
やはり。
孝太郎は拳を強く握る。
「姫華さんが、孝太郎の写真を見たらえらく気に入ってくれたらしく是非婿養子にと」
「30とかオジサンじゃんとか思ってたけどぉ〜こんなイケメンなら全然オッケー、むしろ大歓迎って感じぃ〜?」
姫華は髪を指に巻き付け、クルクルさせながら言う。
「大変申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
孝太郎は丁寧に頭を下げる。
「孝太郎!?」
「えぇ、どぉしてぇ〜」
「心に決めた方がいるので、それでは」
孝太郎は立ち上がり、部屋を後にしようとする。
「待ってよぉ〜、姫華と結婚したらぁ〜今よりもずっとおっきな家にぃ〜、大勢の使用人たちに囲まれてぇ〜いい暮らしできるよぉ〜?それに姫華、若くて可愛いしぃ〜、おっぱいも大きいよぉ〜?」
「そうですか、ですが今の暮らしに満足していますので」
孝太郎は眉ひとつ動かさない。
「待て孝太郎!この縁談を断ることは許さんぞ」
「婚約者ならもういますので」
孝太郎は力強くそういうと襖を閉めて、部屋を後にした。
一方。
先に孝太郎の部屋へ着いた瑠璃は、何をしたらいいのやらと立ち尽くしていた。
机の上に置かれた書類を見ると、どこかの国の言葉でびっしりとかかれていた。
「これはどこの国の言葉なんだろう…」
瑠璃は書類を手に取って眺める。
見れば見るほど訳が分からなくなってしまう。
「いつもこんな難しそうなことしてるんだろうな…。残りの仕事ってなんだろう」
もしかして私の送り迎えをしているせいで、仕事の時間に支障が出ているのではないだろうか。
そう考えると本当に申し訳ない。
早く物件を探して、ここを出なければ…
と、襖をノックする音がした。
「はい」
瑠璃が返事をすると、襖が開き入ってきたのは孝太郎だった。
「もう総一郎さんとの話は済んだの?」
「ああ」
孝太郎は神妙な面立ちで瑠璃に近づくと抱きしめてきた。
「ちょ!えっ…」
「急にごめん、触れたくなった…」
耳元で甘く囁かれる。
「そ、そうなんだ…」
その声を聞くと抵抗できなくなる。
「瑠璃に触れてると落ち着く…」
孝太郎は更に強く瑠璃を抱きしめる。
「それならよかった…」
「瑠璃…」
孝太郎は瑠璃の顎を人差し指でクイと持ち上げると、そのままキスをした。
「きょ、今日もお疲れ様です…」
瑠璃は自分から素早く唇を離す。
咄嗟にこんなことしか言えなかった自分が嫌になる。
「ああ、お疲れ様」
孝太郎は満足そうに瑠璃の頭を撫でる。
「さてっと、俺はまだ仕事が残ってるから先に入浴しちゃってくれ」
「わかった…」
「一緒に入れなくて申し訳ない」
孝太郎がニヤリと笑う。
「そ、そんな一緒に入るだなんて…」
考えただけでも真っ赤になってしまう。
「まあまあいずれはね、それじゃ入っておいで」
「うん」
瑠璃は浴室へ向かい、お湯を沸かすスイッチを押した。
「お父様ぁ〜、婚約破棄されましたぁ〜」
姫華は帰りの車の中で、父親相手に電話で泣きつく。
「おお、おお私の可愛い姫華がそんな扱いを受けるだなんて、なんてことだ!」
父の源十郎(げんじゅうろう)はカンカンに怒っていた。
「確かぁ〜他に婚約者がいるぅ〜とか言ってましたわぁ〜。本当ですのぉ〜?」
「いや、藤堂孝太郎に婚約者など居なかったはずだ…まあいい、こうなったら徹底的に調べさせてもらおう」
「お父様ぁ〜、お願いしますぅ〜姫華ぁ〜、ぜぇ〜ったいこぉ〜たろ〜様と結婚したいですぅ〜」
「可愛い姫華のためだ、なんだってやろう」
「わぁ〜い、ありがとうぉ〜お父様ぁ〜」
姫華を乗せた車は暗闇の中へと消えていった。
「ふぅー」
瑠璃はお風呂が湧いたので、孝太郎の部屋で入浴をしていた。
お湯に浸かるのは久しぶりなので、身体の芯まで温まる。
備え付けのシャンプーやボディーソープは瑠璃のいた客室とは違うもので、孝太郎と同じものを使うのかとドキドキしてしまう。
そもそも普段孝太郎が入浴している浴槽に、自分が入っている…
「あーもうおかしくなりそう…」
瑠璃は両手で顔を隠すと、孝太郎に聞こえないように小声で呟いた。
そして逆上せるギリギリまで湯船に浸かると、観念して浴室を後にした。
お風呂から上がると、孝太郎は書類に目を通していた。
真剣な眼差しはいつもとは違った良さがあった。
「おかえり瑠璃、ゆっくり入れたかい」
孝太郎は書類から顔を上げ、立ち上がる。
「うん、孝太郎さんは仕事はどう?」
「ああ、もうだいぶ片付いたよ。今日は一緒に寝れそうだ」
「そ、そうなんだ。お疲れ様…」
瑠璃は誤魔化すように、タオルでゴシゴシと髪を拭き始める。
「俺と同じ匂いがする」
孝太郎は瑠璃を抱きしめる。
「お、同じもの使ったから…」
瑠璃は髪の毛を乾かすのを止める。
「だけど瑠璃の方がずっと良い匂いがする。不思議だな」
「そうかな…」
自分では違いはよくわからなかったが、あの時布団に入った時と同じ匂いがするのはよくわかった。
「髪の毛早く乾かしちゃって、先に布団に入っていてくれ」
孝太郎は瑠璃の頬にキスをすると抱きしめていた手を離し、再び書類に向き直った。
そして数分後-
孝太郎が布団に入ってきた。
瑠璃は相変わらず孝太郎に背を向けている。
「こっち向いて」
「…」
孝太郎の問いかけには答えない。
「るーり?どうかしたの?」
孝太郎は優しく瑠璃の頭を撫でる。
「きょ、今日はそっち向かなくてもいいかなって」
「どうして?」
「ど、どうしても?」
「でも一緒の布団で寝るのはいいんだね。嬉しいよ」
孝太郎が瑠璃の手を自分の方に寄せると、指を絡ませてきた。
「じゃあ今日は手を繋ぐだけでってことで。おやすみ」
「…おやすみ」
しばらくすると孝太郎の寝息が聞こえてきたが、瑠璃はそれを聞いてばかりで一向に寝れる気配がしなかった。
次の朝。
瑠璃はぼんやりと布団から出た。
目の前の机にはいつも通り孝太郎が仕事で使う書類が置いてあったが、持ち主の姿が見えなかった。
もしかして寝坊でもしたのかと慌てて時計を確認すると、時頃は6時20分と普段よりも早い起床時間だった。
孝太郎は先に仕事へ行ったのだろうか。
なとど考えてると、襖をノックする音がした。
「はい」
「失礼致します」
襖を開けて頭を下げたのは高橋だった。
「瑠璃様おはようございます。孝太郎様は今日はお早い出勤でしたので、本日は私が職場まで送らせて頂きます」
そういえば寝てる時、布団が少しめくれて寒かった気がしなくもない。
「そうだったんですね。わかりました。すぐに準備します」
孝太郎に会えなくて寂しい。
こんなことなら昨晩もっと甘えておけばよかった。
と後悔しながら朝の準備を始めた。
高橋の丁寧な運転で職場である病院へ着いた。
「それでは瑠璃様、行ってらっしゃいませ」
「ありがとうございます」
瑠璃は車から降りる。
「帰りは孝太郎様がお迎えにあがるそうなので」
とだけ言い残すと車は発車した。
「おはようございます〜」
いつものように病院のドアを開けると
「おはよう浅田。今日はいつものイケメンくんじゃないだな」
「え?」
「ほら最近よく送り迎えしてるイケメンくんいるじゃないか」
「ああ、あの人ね〜本当にカッコイイわ〜。医院長並のイケメンなんて久しぶりに見たもの〜」
「ね〜、浅田さんやるわね〜。羨ましいわ〜」
「はぁ…」
これは完全に勘違いされてる。
「あれは彼氏か?」
渡辺がニヤニヤして聞いてくる。
「ち、違いますよ。し、知り合いです!」
「そうかそうか知り合いかー」
渡辺のニヤニヤは止まらない。
「本当ですからね。皆さんも変な勘違いしないようにしてください」
と言い放ち、更衣室へと向かった。
昼休み。
いつものようにコンビニのパンを食べていると、携帯が鳴った。
「誰だろう」
確認すると孝太郎からだった。
「今朝は会えなくて申し訳ない。帰りは迎えに行けるからまた連絡してくれ」
申し訳ないだなんて自分が寝てたせいで、孝太郎は何にも悪くないはずだ。
「…本当にいい人だな…」
今日も孝太郎の部屋で一緒に寝る-
今夜は昨日よりも少しだけ甘えてみようかな。
嫌でも迷惑じゃないだろうか。
そんなことを考えているうちに昼休みが終わった。
そして仕事が終わり、瑠璃は孝太郎に「お疲れ様です。仕事終わりました」のメールをした。
「お疲れ様さまでした〜」
瑠璃は職場を後にした。
病院から出ると見覚えのないが、高級車が停まっていた。
この時間にこんなところに高級車が停ってるなんて普通じゃまずありえなかった。
連絡はなかったが、孝太郎の車だろうか。
屋敷にも何台も別の高級車があったし、今回は別の車なのかも知れない。
瑠璃は車に近づくと、運転席の窓が開く。
サングラスをかけ、スーツを着た30代ほどの男性が声をかけてきた。
「浅田瑠璃様でお間違えないでしょうか?」
その声は非常に無機質で冷たく感じた。
「は、はい…あのどちら様でしょうか?」
「失礼致しました。孝太郎様の代わりにお迎えにあがりましたものです」
「あ、そうだったんですね。ありがとうございます」
おそらく高橋以外のお手伝いさんだろう。
瑠璃は助手席のドアを開けて、車に乗り込む。
車が一向に動こうとはしない。
「あのー?」
瑠璃は声をかけると突然口元を塞がれてしまった。
「ん、ん…」
そして段々意識がなくなっていく…。
男はポケットから携帯電話を取り出し誰かにかける
「はい、浅田瑠璃で間違えありません。確保しましたので直ちにそちらへ。それでは」
電話を切ると、車がゆっくりと走り出した。
「…ここはどこだろう…」
目を覚ました瑠璃はあたりを見回した。
何も無いしんと静まり返った空間に1人-
11月の夜の冷え込みが瑠璃を襲う。
頭痛がすごい、それから吐き気も少々。
手足は紐で縛られていて、身動きが取れない。
その場で軽く飛び跳ねるのが精一杯だった。
ポケットにものが入っている感覚がなく、入っていたスマホや財布も取り上げられたようだ。
「えっと確か…」
瑠璃は混乱している頭の中で精一杯思い出す。
孝太郎の代わりに迎えに来たという車へ乗り込んだら意識をなくし、気がついたらここにいた。
「誘拐とか…?でも私なんか誘拐しても意味無いでしょう」
それこそ名家のご令嬢ならともかく、一般庶民の瑠璃には関係の無い事だった。
と、コツンコツンとなにやら足音がする。
瑠璃は緊張で身動きがとれなくなってしまった。
額にかいた冷や汗が止まらない。
足音が止まり、ドアがギィィと音を立てて開く。
と同時に部屋の電気がついた。
「っ…」
瑠璃は久しぶりの灯りに目を細める。
「お父様ぁ〜、この方がこぉ〜たろ〜の婚約者ですのぉ〜?」
甘ったるい声で話す少女は18、19あたりだろうか。
どこかで見かけたことがある気がした。
それもそのはず彼女はとんでもない美少女だった。
ぱっちり二重の人形のような目、サラサラでツヤツヤな黒髪、形のいい各顔のパーツが小さな顔に並んでいた。
着ている着物も鶴や椿など艶やかな刺繍が施された見るからに上等なものだった。
「あぁ、どうやらそうらしい」
隣にいた濃い緑の着物を着た、50代ほどの男性が腕組みをして、瑠璃を睨んでいた。
「あの婚約者って…そもそもここはどこですか?」
瑠璃は状況が掴めないまま、先程言ってきたことを聞く。
「あらぁ〜?あなた、こぉ〜たろ〜の婚約者じゃないですのぉ〜?ピンキャの新作もぉ〜着てらっちゃるしぃ〜」
前者の質問しか返答がなかった。
ピンキャというのはPINKYCATの略称だ。
服を見ただけでどこのブランドかわかるだなんて、さすがお嬢様である。
「い、いえそんな婚約者だなんて…ち、違います…」
違いますと言うのになんだか罪悪感が凄かった。
結局、孝太郎への気持ちは自分の中では解決しないままだった。
「なぁ〜んだぁ〜、てっきりぃ〜こぉ〜たろ〜様からぁ〜買ってもらったのかとばかり思ってましたわぁ〜。ほらぁ〜やっぱりこの方が婚約者なわけないですわぁ〜こんなどこにでもいそうな方ぁ〜」
「うーむ…確かにな」
男性は腕を組むのと瑠璃を睨みつけるのをやめた。
「ではなぜ孝太郎殿のところへ一緒に住んでいるのか?」
「な、なんでそんなこと知っているのですか…?」
「浅田瑠璃さん、君のことは徹底的に調べされてもらった。正直に話した方が身のためだぞ」
瑠璃は背筋が凍る。
一体いつの間にそんなことされてたのだろうか。
「えっと…それは家が火事になって、困っていたら孝太郎さんがうちに来ないかと誘ってもらって」
「ちょっとぉ〜なにそれぇ〜、図々し過ぎませんことぉ〜?」
「そういうことだったのか、だった今日からうちで泊まるといい」
「え?」
「そうですわぁ〜ウチも部屋なんて余りに余っていますもんねぇ〜」
「ああ荷物だったら気にしなくていい。藤堂家にあるものは全て使用人たちに持ってこさせよう。もっともそんなことしなくても、うちの客室には大体のものが揃っているがな」
トントン拍子で話が進んでいく。
「…」
孝太郎とは離れたくなかった。
だからといっていつまでも甘えているつもりはなかった。
次に住む場所が決まるまでの間まで居よう。
新居が決まり次第出ていく。
そのつもりだった。
しかし日に日に孝太郎の家にいるのが、高橋の迎えが当たり前になりつつあった。
「あの、お断りさせていただけませんか?」
「なにをだね」
男が再び鋭い眼光を向ける。
「こちらの家にお世話になることです」
「つまりまだ藤堂孝太郎の世話になりたいと」
「はい」
「それはどういうことかわかっての発言かね」
「もちろんです」
瑠璃は顔を上げて男を睨み返す。
「お父様ぁ〜、早くこの方なんとかしてくださいぃ〜、姫華ぁ〜こぉ〜たろ〜様と結婚したいのぉ〜」
「ああわかってるよ可愛い姫華。君にはしばらくここに居てもらおう」
「それでは行こうか」と姫華とその父は部屋を後にした。
明かりが消えて、再び真っ暗な部屋に1人になってしまった。
「はぁ…どうしよう…」
このまま一生ここで1人だろうか。
こんなところで死にたくはない。
だがなにをしようにもやりようがなかった。
それこそ身代金でも払えば見逃してくれるだろうか。
いやそんなのさっきの発言や服装を見る限りとても裕福そうだった。
身代金などなんの意味もないはずだ。
そもそもそんなお金どうやって用意するのか。
孝太郎と高橋は今頃何をしているのだろうか。
もしかして自分を助けに来たりなんてしてくれるのだろうか。
「…っ、頭が痛い…」
頭痛は酷くなる一方だった。
瑠璃は少しでも寒くないように身を丸めて、誰かがやってこないかを息を殺して待っていた。
「おかしいな。瑠璃がいない」
瑠璃が勤務している病院へ着いた孝太郎だったが、肝心の姿が見えなくて困惑していた。
メールを送るも一向に返信が来なかった。
「なにかあったのだろうか?」
もしかしたら急な残業に追われてるのかもしれない。
そう思った孝太郎は診療時間は過ぎているが、電気は点いている瑠璃が務めている病院へ向かった。
「ごめんください」
「まあ浅田さんの彼氏さんじゃない!近くで見ると尚更かっこいいわ〜。って、さっきもいらしてたようですがどうかしましたか」
病院のドアを開けると、40代半ばほどの女性が声をかけてきた。
「さっきもいらした?」
「あら?あの高級車は違ったのかしら」
「車が来てたんですか?」
「ええ、浅田さんを乗せたからてっきり彼氏さんとばかり思ってて…」
「そうですか。わかりました。ありがとうございます」
孝太郎はお辞儀をすると、病院を後にした。
車へ着いた孝太郎は高橋へ電話をした。
「はい、高橋ですが」
高橋はワンコールで直ぐに出てくれた。
「ああ、高橋さん。瑠璃、帰ってきてないか?」
「瑠璃様ですか?まだですが」
「そうかわかった。どうやら別の車が瑠璃を乗せったきりで、もしかしたらもう帰ってると思ったんだが…」
「そうだったのですね…瑠璃様が戻り次第こちらも連絡致しますので」
「わかった」
孝太郎は電話を切った。
「瑠璃…無事でいてくれ…」
孝太郎は強くアクセルを踏んだ。
「おかえりなさいませ。孝太郎様。瑠璃様はまだご帰宅なさっていません」
高橋が心配そうに駆け寄ってきた。
「そうか…」
「やはり警察に連絡をした方がいいかと」
「そうだな。そのつもりだ。ところで」
孝太郎は自分が停めた車の隣に停まっている車を見た。
「父さんが来ているのか」
「あ、はい。総一郎様がいらっしゃってます。なにやら満足そうなご様子でしたよ」
「わかった」
父が家にいているということは毎回ろくでもない要件ばかりだった。
前回もそうだった。
今回も家にいてしかも満足そうということは-
孝太郎は早足で総一郎の部屋へと向かった。
「着いたよ」
「ありがとう…」
「元気ないね。どうかしたの?」
孝太郎は瑠璃の頬に触れようとしたが、バシッとその手を叩く。
「…なんでもない」
瑠璃は浮かない顔をして、車を降りた。
車の窓が開く。
「終わったら連絡して。また迎えに行くから」
「うん…」
(こんなに優しくしてもらってるのにな…)
せっかく両思いになれたのに、瑠璃の表情は曇っていた。
素敵な王子様だった彼が両思いになった途端、蛙のように醜く見えてしまう-
瑠璃は蛙化現象に陥っていた。
「おはようございます…」
魂が抜けたような声でドアを開ける。
「おはよう、浅田さんどうかしたの?ってあら今日も素敵な格好ね」
「いや、特には…」
イケメン外交官にプロポーズされて、戸惑ってるなんて言えるわけなかった。
瑠璃は更衣室へ向かい制服に着替えると、いつものように仕事を始めた。
昼休み。
近くのコンビニで買ってきたパンを食べながらぼんやりと考える。
(私が孝太郎さんと結婚…)
まずは孝太郎のことが本当に好きなのを自分に問いてみた。
客観的に見て孝太郎は魅力的だった。
容姿端麗なのはもちろん優しいし、頼りにもなる外交官。
こんな人物探せといったって中々見つからない。
そんな人物だ。
そんな人がなんの取り柄もない自分と釣り合うわけが無い…
そもそも孝太郎はこんな自分のどこを好きになったのだろうか?
いやそもそも-
考えれば考えるほど混乱していくばかりだった。
「はぁ…どうしたらいいんだろう…」
と、スマホが鳴った。
「孝太郎さんからかな…」
また今晩のメニューについてかと思っていたら、春香からだった。
「今晩暇?」
また春香に相談してみるのもいいかもしれない。
瑠璃は「暇だよ」と返信をした。
そして孝太郎には「お疲れ様です。今日は友達と会ってくるので自力で帰ります」とメールをした。
「ええ、イケメン外交官にプロポーズされた!?」
「ちょ、春香、声が大きい」
「ごめんごめん」
あれから瑠璃と春香はいきつけのカフェに来ていた。
いつものようにドリアとドリンクバーを頼むと、瑠璃は早速近状を話した。
「しかもイケメン外交官の家にお世話になってるってどういうことよ。いくら自宅が家事になったからって」
「そうだよね…甘えすぎだよね」
瑠璃は申し訳なさそうに言う。
「その洋服もコスメもみんなイケメン外交官に買ってもらったんでしょ」
瑠璃はこくりと頷く。
おそらく本当に全身デパート御用達コーデの人間が、こんな庶民的なカフェだなんてこないだろうが。
「あーいいなー、そんな人とお近付きになりたかったぁー」
「あはは…」
「瑠璃!」
「な、何?!」
春香は瑠璃の手をがっちりと握ると、真っ直ぐに見つめて
「ぜっっったいその人逃しちゃ駄目だからね!」
「う、うん…」
瑠璃は曖昧に返事をする。
「あー、またどうせ両思いになった途端、彼の好意を喜べなくなってるんでしょ?」
「うん…」
春香にはなんでもお見通しだった。
「なんで両思いになったのに素直に喜べないんかなー」
「私もよくわからなくって…しかもいきなり結婚だなんて…」
「いきなり結婚に驚くのはわかるよ。でもそれと好意に喜べなくなるのは別じゃん?」
「そうだね…」
自分に好意を向けられる度、私は貴方が思ってるような素敵な人じゃないと避けてしまう。
学生時代も何度もこういう事があった。
「私だったら好きな人からの好意なんて嬉しくて嬉しくて仕方ないけどなー」
「嬉しいには嬉しいんだけど…」
どこか心の中で引っかかってしまう。
自分は好かれたくていい子の振りをしているだけで、本当はもっと醜くくてどうしようもないやつなのに-
と、スマホが鳴った。
確認してみると孝太郎からだった。
「お疲れ様、どこの店?終わり次第連絡してくれ。迎えに行くから」
孝太郎はどこまでも優しかった。
その優しさが瑠璃を傷つける。
「結構です。自力で帰りますので」
と返信した。
「瑠璃、彼からメール?」
「うん、迎えに来るって」
「えー送り迎えまでしてもらってるの?いいなー。こっちは毎日満員電車だっていうのにさー」
「でも断ったから」
「断ったぁ?!なんでよ」
春香が信じられないという顔をしている。
「も、申し訳ないから…」
それに孝太郎と顔を合わせるのも気まずかった。
「相手からの好意なんだから、素直に甘えればいいのに」
「それが出来たら苦労しないよ…」
瑠璃はオレンジジュースを1口飲む。
「それじゃあいつまで経っても学生の頃のまんまだよ。それでいいの?」
高校生からの付き合いがある春香はよく知っていた。
「よく、ない、です…」
「ならとことん好意に甘えるべきでしょ」
「うん…」
瑠璃も今回は成就させたかった。
他の誰でもない孝太郎と。
「ほら、ウダウダ考えてないでやっぱり迎えに来てくださいってメール送る」
瑠璃は言われた通りにメールを送った。
こうして今日はお開きになった。
お店の前で待ってること数分、目の前に馴染みのある高級車が止まった。
瑠璃は助手席のドアを恐る恐る開けた。
「お疲れ様」
孝太郎は爽やかな笑顔を向ける。
「お疲れ様…今日も迎えに来てくれてありがとう」
「いいよ、そんなの気にしないで」
車が発進する。
「今日はどうだった?」
「あー、仕事の方はいつも通りだよ。あとは友達とご飯食べてきたぐらいかな」
「友達って女性?それとも…」
「じょ、女性だって!男性で一緒にご飯食べる仲の人なんていないから!」
「はは。そんなに否定しなくったていいのに」
「…っ、それもそうだね…」
「もしも男性と食べてきたなんて言ったら、嫉妬するなー」
「嫉妬って…そんな大袈裟な…」
「瑠璃は俺が他の女性と食事してたら嫉妬しない?」
「それは…」
するに決まっている。
「するの?しないの?」
孝太郎は心底嬉しそうに聞いてくる。
「し、し、します…」
「うん。そうだよね」
と頭を撫でられる。
「今日も仕事が残ってるから先に寝てて」
「え!今日も一緒に寝るの?!」
「え、そのつもりだったんだけど…嫌だった?」
「…」
嫌ではなかった。
ただ今朝のことがあって気まずいだけだった。
孝太郎はそのことについてはもうなんとも思ってないのだろうか。
ちらりと孝太郎の横顔を見ると、特に気にした様子もなく普通だった。
(相変わらずかっこいな…)
なんてぼんやりと眺めていると
「瑠璃?」
信号が赤になり車が止まる。
孝太郎と目が合った。
「な、なんでもない…」
瑠璃は咄嗟に逸らしてしまう。
それからお互い無言になってしまった。
そして車が屋敷に着いた。
隣にはなにやら別の高級車が2台ほど停まっていた。
「おかえりなさいませ、瑠璃様、孝太郎様」
いつもように高橋が出迎えてくれた。
「ああ、ただいま」
「ただいま帰りました」
高橋の姿を見ると、ほっとする自分がいたのに驚いた。
「本日は総一郎様とそのお客様がいらっしゃってますよ」
「父さんが?」
孝太郎が眉をひそめる。
「はい、大事な人お話があるとか」
「わかった。瑠璃、先に俺の部屋へ行っててくれ」
「うん」
「失礼致します」
孝太郎は静かに襖を開ける。
「おお、孝太郎久しぶりだな」
「初めましてぇ〜、キャー写真よりかっこいいぃ〜」
その隣でニコニコ笑う美少女がいた。
孝太郎は嫌な予感がした。
「こちらの女性は?」
「あっ、申し遅れましたぁ〜、あたしぃ〜早乙女姫華(さおとめひめか)ですぅ〜」
「ああ、早乙女財閥のご令嬢でしたか」
早乙女財閥といえば日本全国だけでなく、海外にも進出している大手企業だ。
「姫華の事ご存知なんですねぇ〜。嬉しいぃ〜」
姫華はキャッキャッとはしゃぐ。
「そのご令嬢がどうしてここに?」
「ふむ。他でもない結婚の話だ」
やはり。
孝太郎は拳を強く握る。
「姫華さんが、孝太郎の写真を見たらえらく気に入ってくれたらしく是非婿養子にと」
「30とかオジサンじゃんとか思ってたけどぉ〜こんなイケメンなら全然オッケー、むしろ大歓迎って感じぃ〜?」
姫華は髪を指に巻き付け、クルクルさせながら言う。
「大変申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
孝太郎は丁寧に頭を下げる。
「孝太郎!?」
「えぇ、どぉしてぇ〜」
「心に決めた方がいるので、それでは」
孝太郎は立ち上がり、部屋を後にしようとする。
「待ってよぉ〜、姫華と結婚したらぁ〜今よりもずっとおっきな家にぃ〜、大勢の使用人たちに囲まれてぇ〜いい暮らしできるよぉ〜?それに姫華、若くて可愛いしぃ〜、おっぱいも大きいよぉ〜?」
「そうですか、ですが今の暮らしに満足していますので」
孝太郎は眉ひとつ動かさない。
「待て孝太郎!この縁談を断ることは許さんぞ」
「婚約者ならもういますので」
孝太郎は力強くそういうと襖を閉めて、部屋を後にした。
一方。
先に孝太郎の部屋へ着いた瑠璃は、何をしたらいいのやらと立ち尽くしていた。
机の上に置かれた書類を見ると、どこかの国の言葉でびっしりとかかれていた。
「これはどこの国の言葉なんだろう…」
瑠璃は書類を手に取って眺める。
見れば見るほど訳が分からなくなってしまう。
「いつもこんな難しそうなことしてるんだろうな…。残りの仕事ってなんだろう」
もしかして私の送り迎えをしているせいで、仕事の時間に支障が出ているのではないだろうか。
そう考えると本当に申し訳ない。
早く物件を探して、ここを出なければ…
と、襖をノックする音がした。
「はい」
瑠璃が返事をすると、襖が開き入ってきたのは孝太郎だった。
「もう総一郎さんとの話は済んだの?」
「ああ」
孝太郎は神妙な面立ちで瑠璃に近づくと抱きしめてきた。
「ちょ!えっ…」
「急にごめん、触れたくなった…」
耳元で甘く囁かれる。
「そ、そうなんだ…」
その声を聞くと抵抗できなくなる。
「瑠璃に触れてると落ち着く…」
孝太郎は更に強く瑠璃を抱きしめる。
「それならよかった…」
「瑠璃…」
孝太郎は瑠璃の顎を人差し指でクイと持ち上げると、そのままキスをした。
「きょ、今日もお疲れ様です…」
瑠璃は自分から素早く唇を離す。
咄嗟にこんなことしか言えなかった自分が嫌になる。
「ああ、お疲れ様」
孝太郎は満足そうに瑠璃の頭を撫でる。
「さてっと、俺はまだ仕事が残ってるから先に入浴しちゃってくれ」
「わかった…」
「一緒に入れなくて申し訳ない」
孝太郎がニヤリと笑う。
「そ、そんな一緒に入るだなんて…」
考えただけでも真っ赤になってしまう。
「まあまあいずれはね、それじゃ入っておいで」
「うん」
瑠璃は浴室へ向かい、お湯を沸かすスイッチを押した。
「お父様ぁ〜、婚約破棄されましたぁ〜」
姫華は帰りの車の中で、父親相手に電話で泣きつく。
「おお、おお私の可愛い姫華がそんな扱いを受けるだなんて、なんてことだ!」
父の源十郎(げんじゅうろう)はカンカンに怒っていた。
「確かぁ〜他に婚約者がいるぅ〜とか言ってましたわぁ〜。本当ですのぉ〜?」
「いや、藤堂孝太郎に婚約者など居なかったはずだ…まあいい、こうなったら徹底的に調べさせてもらおう」
「お父様ぁ〜、お願いしますぅ〜姫華ぁ〜、ぜぇ〜ったいこぉ〜たろ〜様と結婚したいですぅ〜」
「可愛い姫華のためだ、なんだってやろう」
「わぁ〜い、ありがとうぉ〜お父様ぁ〜」
姫華を乗せた車は暗闇の中へと消えていった。
「ふぅー」
瑠璃はお風呂が湧いたので、孝太郎の部屋で入浴をしていた。
お湯に浸かるのは久しぶりなので、身体の芯まで温まる。
備え付けのシャンプーやボディーソープは瑠璃のいた客室とは違うもので、孝太郎と同じものを使うのかとドキドキしてしまう。
そもそも普段孝太郎が入浴している浴槽に、自分が入っている…
「あーもうおかしくなりそう…」
瑠璃は両手で顔を隠すと、孝太郎に聞こえないように小声で呟いた。
そして逆上せるギリギリまで湯船に浸かると、観念して浴室を後にした。
お風呂から上がると、孝太郎は書類に目を通していた。
真剣な眼差しはいつもとは違った良さがあった。
「おかえり瑠璃、ゆっくり入れたかい」
孝太郎は書類から顔を上げ、立ち上がる。
「うん、孝太郎さんは仕事はどう?」
「ああ、もうだいぶ片付いたよ。今日は一緒に寝れそうだ」
「そ、そうなんだ。お疲れ様…」
瑠璃は誤魔化すように、タオルでゴシゴシと髪を拭き始める。
「俺と同じ匂いがする」
孝太郎は瑠璃を抱きしめる。
「お、同じもの使ったから…」
瑠璃は髪の毛を乾かすのを止める。
「だけど瑠璃の方がずっと良い匂いがする。不思議だな」
「そうかな…」
自分では違いはよくわからなかったが、あの時布団に入った時と同じ匂いがするのはよくわかった。
「髪の毛早く乾かしちゃって、先に布団に入っていてくれ」
孝太郎は瑠璃の頬にキスをすると抱きしめていた手を離し、再び書類に向き直った。
そして数分後-
孝太郎が布団に入ってきた。
瑠璃は相変わらず孝太郎に背を向けている。
「こっち向いて」
「…」
孝太郎の問いかけには答えない。
「るーり?どうかしたの?」
孝太郎は優しく瑠璃の頭を撫でる。
「きょ、今日はそっち向かなくてもいいかなって」
「どうして?」
「ど、どうしても?」
「でも一緒の布団で寝るのはいいんだね。嬉しいよ」
孝太郎が瑠璃の手を自分の方に寄せると、指を絡ませてきた。
「じゃあ今日は手を繋ぐだけでってことで。おやすみ」
「…おやすみ」
しばらくすると孝太郎の寝息が聞こえてきたが、瑠璃はそれを聞いてばかりで一向に寝れる気配がしなかった。
次の朝。
瑠璃はぼんやりと布団から出た。
目の前の机にはいつも通り孝太郎が仕事で使う書類が置いてあったが、持ち主の姿が見えなかった。
もしかして寝坊でもしたのかと慌てて時計を確認すると、時頃は6時20分と普段よりも早い起床時間だった。
孝太郎は先に仕事へ行ったのだろうか。
なとど考えてると、襖をノックする音がした。
「はい」
「失礼致します」
襖を開けて頭を下げたのは高橋だった。
「瑠璃様おはようございます。孝太郎様は今日はお早い出勤でしたので、本日は私が職場まで送らせて頂きます」
そういえば寝てる時、布団が少しめくれて寒かった気がしなくもない。
「そうだったんですね。わかりました。すぐに準備します」
孝太郎に会えなくて寂しい。
こんなことなら昨晩もっと甘えておけばよかった。
と後悔しながら朝の準備を始めた。
高橋の丁寧な運転で職場である病院へ着いた。
「それでは瑠璃様、行ってらっしゃいませ」
「ありがとうございます」
瑠璃は車から降りる。
「帰りは孝太郎様がお迎えにあがるそうなので」
とだけ言い残すと車は発車した。
「おはようございます〜」
いつものように病院のドアを開けると
「おはよう浅田。今日はいつものイケメンくんじゃないだな」
「え?」
「ほら最近よく送り迎えしてるイケメンくんいるじゃないか」
「ああ、あの人ね〜本当にカッコイイわ〜。医院長並のイケメンなんて久しぶりに見たもの〜」
「ね〜、浅田さんやるわね〜。羨ましいわ〜」
「はぁ…」
これは完全に勘違いされてる。
「あれは彼氏か?」
渡辺がニヤニヤして聞いてくる。
「ち、違いますよ。し、知り合いです!」
「そうかそうか知り合いかー」
渡辺のニヤニヤは止まらない。
「本当ですからね。皆さんも変な勘違いしないようにしてください」
と言い放ち、更衣室へと向かった。
昼休み。
いつものようにコンビニのパンを食べていると、携帯が鳴った。
「誰だろう」
確認すると孝太郎からだった。
「今朝は会えなくて申し訳ない。帰りは迎えに行けるからまた連絡してくれ」
申し訳ないだなんて自分が寝てたせいで、孝太郎は何にも悪くないはずだ。
「…本当にいい人だな…」
今日も孝太郎の部屋で一緒に寝る-
今夜は昨日よりも少しだけ甘えてみようかな。
嫌でも迷惑じゃないだろうか。
そんなことを考えているうちに昼休みが終わった。
そして仕事が終わり、瑠璃は孝太郎に「お疲れ様です。仕事終わりました」のメールをした。
「お疲れ様さまでした〜」
瑠璃は職場を後にした。
病院から出ると見覚えのないが、高級車が停まっていた。
この時間にこんなところに高級車が停ってるなんて普通じゃまずありえなかった。
連絡はなかったが、孝太郎の車だろうか。
屋敷にも何台も別の高級車があったし、今回は別の車なのかも知れない。
瑠璃は車に近づくと、運転席の窓が開く。
サングラスをかけ、スーツを着た30代ほどの男性が声をかけてきた。
「浅田瑠璃様でお間違えないでしょうか?」
その声は非常に無機質で冷たく感じた。
「は、はい…あのどちら様でしょうか?」
「失礼致しました。孝太郎様の代わりにお迎えにあがりましたものです」
「あ、そうだったんですね。ありがとうございます」
おそらく高橋以外のお手伝いさんだろう。
瑠璃は助手席のドアを開けて、車に乗り込む。
車が一向に動こうとはしない。
「あのー?」
瑠璃は声をかけると突然口元を塞がれてしまった。
「ん、ん…」
そして段々意識がなくなっていく…。
男はポケットから携帯電話を取り出し誰かにかける
「はい、浅田瑠璃で間違えありません。確保しましたので直ちにそちらへ。それでは」
電話を切ると、車がゆっくりと走り出した。
「…ここはどこだろう…」
目を覚ました瑠璃はあたりを見回した。
何も無いしんと静まり返った空間に1人-
11月の夜の冷え込みが瑠璃を襲う。
頭痛がすごい、それから吐き気も少々。
手足は紐で縛られていて、身動きが取れない。
その場で軽く飛び跳ねるのが精一杯だった。
ポケットにものが入っている感覚がなく、入っていたスマホや財布も取り上げられたようだ。
「えっと確か…」
瑠璃は混乱している頭の中で精一杯思い出す。
孝太郎の代わりに迎えに来たという車へ乗り込んだら意識をなくし、気がついたらここにいた。
「誘拐とか…?でも私なんか誘拐しても意味無いでしょう」
それこそ名家のご令嬢ならともかく、一般庶民の瑠璃には関係の無い事だった。
と、コツンコツンとなにやら足音がする。
瑠璃は緊張で身動きがとれなくなってしまった。
額にかいた冷や汗が止まらない。
足音が止まり、ドアがギィィと音を立てて開く。
と同時に部屋の電気がついた。
「っ…」
瑠璃は久しぶりの灯りに目を細める。
「お父様ぁ〜、この方がこぉ〜たろ〜の婚約者ですのぉ〜?」
甘ったるい声で話す少女は18、19あたりだろうか。
どこかで見かけたことがある気がした。
それもそのはず彼女はとんでもない美少女だった。
ぱっちり二重の人形のような目、サラサラでツヤツヤな黒髪、形のいい各顔のパーツが小さな顔に並んでいた。
着ている着物も鶴や椿など艶やかな刺繍が施された見るからに上等なものだった。
「あぁ、どうやらそうらしい」
隣にいた濃い緑の着物を着た、50代ほどの男性が腕組みをして、瑠璃を睨んでいた。
「あの婚約者って…そもそもここはどこですか?」
瑠璃は状況が掴めないまま、先程言ってきたことを聞く。
「あらぁ〜?あなた、こぉ〜たろ〜の婚約者じゃないですのぉ〜?ピンキャの新作もぉ〜着てらっちゃるしぃ〜」
前者の質問しか返答がなかった。
ピンキャというのはPINKYCATの略称だ。
服を見ただけでどこのブランドかわかるだなんて、さすがお嬢様である。
「い、いえそんな婚約者だなんて…ち、違います…」
違いますと言うのになんだか罪悪感が凄かった。
結局、孝太郎への気持ちは自分の中では解決しないままだった。
「なぁ〜んだぁ〜、てっきりぃ〜こぉ〜たろ〜様からぁ〜買ってもらったのかとばかり思ってましたわぁ〜。ほらぁ〜やっぱりこの方が婚約者なわけないですわぁ〜こんなどこにでもいそうな方ぁ〜」
「うーむ…確かにな」
男性は腕を組むのと瑠璃を睨みつけるのをやめた。
「ではなぜ孝太郎殿のところへ一緒に住んでいるのか?」
「な、なんでそんなこと知っているのですか…?」
「浅田瑠璃さん、君のことは徹底的に調べされてもらった。正直に話した方が身のためだぞ」
瑠璃は背筋が凍る。
一体いつの間にそんなことされてたのだろうか。
「えっと…それは家が火事になって、困っていたら孝太郎さんがうちに来ないかと誘ってもらって」
「ちょっとぉ〜なにそれぇ〜、図々し過ぎませんことぉ〜?」
「そういうことだったのか、だった今日からうちで泊まるといい」
「え?」
「そうですわぁ〜ウチも部屋なんて余りに余っていますもんねぇ〜」
「ああ荷物だったら気にしなくていい。藤堂家にあるものは全て使用人たちに持ってこさせよう。もっともそんなことしなくても、うちの客室には大体のものが揃っているがな」
トントン拍子で話が進んでいく。
「…」
孝太郎とは離れたくなかった。
だからといっていつまでも甘えているつもりはなかった。
次に住む場所が決まるまでの間まで居よう。
新居が決まり次第出ていく。
そのつもりだった。
しかし日に日に孝太郎の家にいるのが、高橋の迎えが当たり前になりつつあった。
「あの、お断りさせていただけませんか?」
「なにをだね」
男が再び鋭い眼光を向ける。
「こちらの家にお世話になることです」
「つまりまだ藤堂孝太郎の世話になりたいと」
「はい」
「それはどういうことかわかっての発言かね」
「もちろんです」
瑠璃は顔を上げて男を睨み返す。
「お父様ぁ〜、早くこの方なんとかしてくださいぃ〜、姫華ぁ〜こぉ〜たろ〜様と結婚したいのぉ〜」
「ああわかってるよ可愛い姫華。君にはしばらくここに居てもらおう」
「それでは行こうか」と姫華とその父は部屋を後にした。
明かりが消えて、再び真っ暗な部屋に1人になってしまった。
「はぁ…どうしよう…」
このまま一生ここで1人だろうか。
こんなところで死にたくはない。
だがなにをしようにもやりようがなかった。
それこそ身代金でも払えば見逃してくれるだろうか。
いやそんなのさっきの発言や服装を見る限りとても裕福そうだった。
身代金などなんの意味もないはずだ。
そもそもそんなお金どうやって用意するのか。
孝太郎と高橋は今頃何をしているのだろうか。
もしかして自分を助けに来たりなんてしてくれるのだろうか。
「…っ、頭が痛い…」
頭痛は酷くなる一方だった。
瑠璃は少しでも寒くないように身を丸めて、誰かがやってこないかを息を殺して待っていた。
「おかしいな。瑠璃がいない」
瑠璃が勤務している病院へ着いた孝太郎だったが、肝心の姿が見えなくて困惑していた。
メールを送るも一向に返信が来なかった。
「なにかあったのだろうか?」
もしかしたら急な残業に追われてるのかもしれない。
そう思った孝太郎は診療時間は過ぎているが、電気は点いている瑠璃が務めている病院へ向かった。
「ごめんください」
「まあ浅田さんの彼氏さんじゃない!近くで見ると尚更かっこいいわ〜。って、さっきもいらしてたようですがどうかしましたか」
病院のドアを開けると、40代半ばほどの女性が声をかけてきた。
「さっきもいらした?」
「あら?あの高級車は違ったのかしら」
「車が来てたんですか?」
「ええ、浅田さんを乗せたからてっきり彼氏さんとばかり思ってて…」
「そうですか。わかりました。ありがとうございます」
孝太郎はお辞儀をすると、病院を後にした。
車へ着いた孝太郎は高橋へ電話をした。
「はい、高橋ですが」
高橋はワンコールで直ぐに出てくれた。
「ああ、高橋さん。瑠璃、帰ってきてないか?」
「瑠璃様ですか?まだですが」
「そうかわかった。どうやら別の車が瑠璃を乗せったきりで、もしかしたらもう帰ってると思ったんだが…」
「そうだったのですね…瑠璃様が戻り次第こちらも連絡致しますので」
「わかった」
孝太郎は電話を切った。
「瑠璃…無事でいてくれ…」
孝太郎は強くアクセルを踏んだ。
「おかえりなさいませ。孝太郎様。瑠璃様はまだご帰宅なさっていません」
高橋が心配そうに駆け寄ってきた。
「そうか…」
「やはり警察に連絡をした方がいいかと」
「そうだな。そのつもりだ。ところで」
孝太郎は自分が停めた車の隣に停まっている車を見た。
「父さんが来ているのか」
「あ、はい。総一郎様がいらっしゃってます。なにやら満足そうなご様子でしたよ」
「わかった」
父が家にいているということは毎回ろくでもない要件ばかりだった。
前回もそうだった。
今回も家にいてしかも満足そうということは-
孝太郎は早足で総一郎の部屋へと向かった。