この恋は突然に… 〜エリート外交官に見初められて〜
「えー!イケメン外交官に仕事辞めて家庭を守って欲しいって言われたぁ〜?」
「春香、声大きいって」
「あ、ごめんごめん」
土曜日、瑠璃は春香と共にいつものカフェへ来ていた。
近状報告として以前孝太郎に言われたことを話すと、反応はプロポーズされた時と同じようなものだった。
「ってことは寿退社ってこと?あーいいなー」
春香はフォークを片手に天井に向かって叫ぶ。
「うーん確かにそうなるよね…」
「相変わらず浮かない顔しちゃってさ〜」
「今の仕事は好きだし、仕事辞めて専業主婦になるほど家事できる訳じゃないし…」
「でも彼は少しづつでいいって言ってくれてるんでしょ?ならいいじゃん。あーあ、私にもそんな風に言ってくれる白馬に乗った王子様現れないかなー」
「白馬に乗った王子様って…」
瑠璃は烏龍茶を1口飲むと苦笑いする。
「だって今どきいないよ?専業主婦になって欲しいなんて言う人」
「まあねー」
瑠璃はストローから口を離すと、くるくると回す。
「そうだ。結婚式どこであげるの?軽井沢?ハワイ?」
「ちょっと、春香気が早いって」
瑠璃は早口に否定する。
「そんなの時間の問題じゃんか〜。絶対招待してよね」
「う、うんわかった…」
「それに比べて私は出会いすらないやー。あの時シャンパンがかかったのが私だったらよかったのに〜」
「そういえば、シャンパンがかかってなかったらこうして出会うことすらなかったのか…」
瑠璃は神妙な顔で烏龍茶を見つめる。
あの時は不運なことが起きたとばかり思っていたのに、まさかこんなことになるなんて。
「それでもあの時、春香が背中を押してくれなかったらお近ずきになれないままだったよ」
ハンカチを返すか返すまいかで悩んでた、瑠璃を後押ししてくれたのは春香だった。
「瑠璃〜、それ結婚式のスピーチで言うから」
「う、うん…」
相変わらず気が早い春香だった。
春香とお開きになったことを孝太郎へとメールする。
外に出ると随分と寒く、暗くなっていた。
すっかり話し込んでしまったようだ。
自力で帰ると言ったのだが、あんな事件があってすぐだ。
危ないから送り迎えをさせてほしいとのことだった。
しばらくすると孝太郎の運転する車が、瑠璃の目の前を止まる。
「今回もありがとうね」
お礼を言いながら助手席のドアを開ける。
「気にしないでくれ」
孝太郎は瑠璃の頬にキスをする。
「今日も友達と話せてきたか?」
「うん、友達ったら気が早くて困っちゃったよ〜」
「気が早いって?」
「あ…えっと…」
瑠璃は口を閉ざす。
「どういう意味?」
「け、結婚式どこで挙げるの?とか聞かれて…」
「ああ、なるほどね。そういうことか。瑠璃はどこで挙げたい?」
「え?私?私は…」
突然の問いかけに答えに詰まる。
結婚式だなんて今まで考えてなかった。
「パ、パリとかいいんじゃないかな?出会った場所でもあるし」
なんて適当にはぐらかす。
「パリかー、確かに出会った場所だしいいかもなー」
孝太郎が満更でもなさそうに言う。
「でもそんな結婚式なんていきなりすぎて…」
孝太郎は瑠璃の手をぎゅっと握る。
「よさげな会場、一緒に探そう」
「そ、そうだね」
「素敵な式にしような」
「うん…」
握られてた手に力が入る。
「おかえりなさいませ」
「ただいま帰りました」
高橋がぺこりと頭を下げるのにつられて、瑠璃も下げる。
「高橋さん、こんな遅くまですまない。今日はもう帰ってくれ」
「いえいえ、留守を守るのが私の仕事ですから」
留守を守るという単語に瑠璃はピクっとした。
いずれは自分もそうなる身だ。
今からでも高橋の仕事っぷりを見ておいた方がいいかもしれない。
瑠璃は高橋をじっと観察する。
いつも元気で笑顔で迎えてくれて、こちらまで元気と笑顔を貰えるような存在だった。
そんな存在に自分もなれるだろうか?
「…り?瑠璃?どうかしたか」
「!!う、ううんなんでもない」
「じゃあ俺達は部屋へ行くから。高橋さんお疲れ様」
「お疲れ様です」
「ありがとうございます。お2人共、お疲れ様でございました」
孝太郎の部屋へ着くといきなり抱きしめられた。
「どうかしたの?」
「いや、なんでも。ただ瑠璃を抱きしめてると落ち着くんだ」
前にもそんなことを言われた気がした。
「今日は特に仕事は残ってないんだ。一緒にテレビでも観るか」
そういうと孝太郎はテレビのスイッチを入れ、瑠璃を横抱きするとソファーへ座らせた。
「孝太郎さんの部屋でテレビ観るの初めてかも」
「はは。ずっと仕事の残りをしてばかりだったもんな」
「そうそう、だからこうして一緒にテレビ観るの新鮮」
見覚えがあるのは書類とパソコンを交互に見る、真剣な眼差しだった。
それを見るのは瑠璃は好きだったが、こうして隣で同じものを見つめる眼差しもいいなと幸せに満ち溢れていた。
「そぉ〜なんですぅ〜、姫華ぁ〜大失恋してぇ〜、ぜぇ〜ったいその人のこと見返すって決めたんですぅ〜」
テレビから聞き覚えがある声がする。
「あ、早乙女姫華だ」
瑠璃は咄嗟にその名前を口に出す。
黒地に百合の刺繍が入った着物を着ていた。
姫華の真っ白な肌がよく映えていた。
「テレビにも出るんだなー。普段観ないから全然知らなかったよ」
「みたいだねー。私も普段観ないから初めて出てるの観た」
「…」
「孝太郎さん?」
返事がないので横をチラと見ると孝太郎は目を閉じていた。
「寝ちゃったのかな?」
しばらくすると微かに寝息が聞こえてきた。
「へえー、姫華ちゃんみたいな可愛い子を振る男なんているんだねー」
テレビからそんな声が聞こえてきた。
「そぉ〜なんですぅ〜。もぉ〜びっくりしましたぁ〜」
振った本人は現在夢の中である。
「でも姫華ちゃんほどの家柄の子だったら、許嫁とかいるんじゃないの?」
「確かに」
瑠璃は思わずテレビに向かって相槌を打ってしまった。
「あぁ〜、いたんですけどぉ〜断っちゃいましたぁ〜。とっても暗い方でぇ〜こっちまで暗くなるような方でしたわぁ〜」
「断っちゃいましたって…」
瑠璃は呆れたように言う。
そんな簡単に断れるものなのだろうか?
いやあの父親だったらなんでもするだろうから、きっとどんな手段を使ってでも断ったのだろう。
瑠璃を誘拐した時のように。
「そうだったんだね。それは大変だ。ところで姫華ちゃん…」
「ふぁ〜…なんだか私も眠くなってきちゃった…」
瑠璃も目を閉じた。
隣から感じる孝太郎のぬくもりが心地いい。
カタカタと何かを叩く音で瑠璃は目を覚ました。
起きると毛布がかかっており、ソファーの上だった。
(そうだ、あのまま寝落ちしちゃって、それで…)
瑠璃は後ろを振り返ると、パソコンに向かってタイピングしてる孝太郎と目が合った。
「おはよう、瑠璃。起こしちゃったかな」
孝太郎はスーツ姿で、仕事に行く準備を済ませてあった。
「ううん、大丈夫」
瑠璃はソファーから起き上がる。
時刻を確認すると5時半。
随分と寝てたみたいだ。
「風呂さっき沸かしたばっかりだから入ってきちゃって」
「わかったありがとう」
瑠璃はコンタクトを外したり、タオルを用意したり入浴するための準備を始めた。
「ふぅ〜まさかあんなに寝てたなんて」
瑠璃は浴槽の中で大きく伸びをする。
ふかふかのソファーで寝てたため身体が痛いことはなかったが、寝返りがうちにくいため若干身体がなまっている。
孝太郎が入浴したばかりのため、浴室の中が使っているシャンプーの匂いで溢れてドキドキする。
「ここのシャンプーとボディーソープ使うようになってから髪と肌の調子がいいんだよねー」
一体どこのを使っているのだろうか。
パッケージを確認してもそれらしいメーカー名は書いてない。
「あとで孝太郎さんに聞いてみよう」
そういうと瑠璃は浴室を後にした。
「おお瑠璃あがったのか」
孝太郎が机から顔を上げて瑠璃を見る。
「うん、さっぱりした〜。ってそうそう孝太郎さん使ってるシャンプーとボディーソープってどこの?」
瑠璃はタオルで髪の毛を拭きながら言う。
「あーそこら辺はみんな高橋さんに任せてるんだ。今度聞いておくよ」
「そうなんだ。わかった」
(家の事、殆ど高橋さんに任せっぱなしなんだな)
多忙な外交官なのだから仕方がない。
結婚してからはそういう細かいことも自分でやることになるだろう。
「頑張らないと…」
瑠璃は小声で呟く。
コンコンコンと襖をノックする音がする。
「はいー」
メイク中の瑠璃が返事をすると
「瑠璃様お目覚めで何よりです。孝太郎様もお目覚めでしょうか?」
「ああ、起きてるよ」
「かしこまりました。お食事の用意ができていますので召し上がっていってくださいませ。それでは」
「また高崎さんの料理食べれるー」
「ああ沢山食べてくれ。それじゃあ準備が出来次第、食堂へ向かうとするか」
「うん、ちょっとまっててね」
「ゆっくりでいいよ」
「ありがとう」
食堂の襖を開けるといつも通り香ばしい匂いがしてきた。
机の上を見るとご飯、大根の味噌汁、鰤の照り焼き、百合根の茶碗蒸しに肉じゃが、小鉢には白菜の漬物が入っていた。
「今日も美味しそうー」
瑠璃は嬉しそうに座布団に正座をする。
「だなー」
孝太郎も机を挟んで正面に腰を下ろす。
「それじゃあいただきます」
瑠璃は手を合わせると朝食を食べ始めた。
「今日もいつもの時間に終わると思うから」
職場まで送って貰った瑠璃は孝太郎にそう告げる。
「わかったよ、今日も頑張って」
「孝太郎さんもね」
「ああ、ありがとう」
そう言うと車が発進した。
(今日、医院長に言おう…)
瑠璃は覚悟を決めると、病院へ向かって歩き出した。
「おはようございます〜」
瑠璃は病院のドアを開ける。
「あら、浅田さん。おはよう」
「おはよう。浅田さん」
皆もうすっかり、瑠璃の全身ブランド品コーデとデパコス顔に驚かなくなってしまって、少し寂しさがあった。
(あの時は人気者気分だったのにな…)
あんなに口々に褒められたことなんて、これから先一生ないかもしれない。
「お〜浅田、おはよう」
「あ、医院長。おはようございます」
医院長の姿を見ると、無意識に背筋がピンと伸びてしまった。
「おお、どうした〜そんな身構えて」
「いや〜特には…あはは。着替えてきまーす」
瑠璃は適当に誤魔化すと足早に更衣室へ向かった。
昼休み。
いつも通り、早々にコンビニのパンを食べ終えた瑠璃は診察室の前へ来ていた。
コンコンコン。
瑠璃は診察室のドアをノックする。
「どーぞー」
緊張している瑠璃とは対照的に随分と気の抜けた声が聞こえたので、ドアを開ける。
「失礼します。あの医院長」
「お、なんだ〜浅田か。どうした〜?寿退社の相談か?」
渡辺が書類を片手に冗談っぽく言う。
「はい。実はそうなんです」
「え?マジで?」
渡辺は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてこちらを振り向く。
「やー、まさか本当だったとは…。よかったな浅田」
「ありがとうございます。来月か再来月には辞めようかと思ってまして…」
「おー、わかった。それまでにこっちも新しい人見つけておくわー」
「すみません。ご迷惑をおかけてしますが最後までよろしくお願いします」
「迷惑なんてとんでもない。おめでたい事じゃないか。他の人には話したのか?」
「いえまだです。私の口から伝えたいのですが、中々タイミングがなくって」
「おおそうかー、本当に困ったら言えよ。俺から言っておくから」
頼もしい上司で心強かった。
「ありがとうございます」
瑠璃は頭を下げると、診察室を後にした。
「よかった、伝えられて」
瑠璃はホッとしたように診察室のドアに寄りかかる。
「あとは春香にも伝えておこっと」
瑠璃はスマホを起動すると、孝太郎からメールが来ていた。
また晩御飯のことだろう。
「今日は何にしようかな」
そんなことを考えながら休憩室へ戻っていった。
「お疲れ様でした〜」
瑠璃は元気よく職場の人たちへ挨拶をする。
病院のドアを開けると、冷たい風が一気に吹き込んできた。
「う〜さむっ…」
瑠璃は両手を擦り合わせる。
と、孝太郎の運転する車が瑠璃の前に来た。
「お疲れ様〜今日もありがとう〜」
助手席のドアを開けながら言う。
「お疲れ様、今日はどうだった?」
「あ〜今日はね…」
瑠璃は外のイルミネーションを眺めながら
「近々仕事辞めますって医院長に言ってきた」
「それって…」
「う、うん…」
瑠璃は急に恥ずかしくなって自分の手を握る。
「ありがとう、嬉しいよ」
孝太郎が瑠璃の頭を撫でる。
「だいぶ驚かれちゃったけどね…」
「そっかそっか」
孝太郎はご機嫌だった。
「でも本当に家事とか何にもできないけど…」
「言ったろ?そんなのは少しづつでいいって」
「うん…」
「高橋さんに聞いたら喜んで教えてくれそうだなー。あ、でも私の仕事ですからって言って瑠璃には一切やらせないかもなー」
「えーじゃあ私の仕事はどうなるのー?」
「だったらなにか好きなことをやるといいよ」
「好きなこと?」
そんな緩いことが瑠璃の仕事になるのだろうか。
「なにかないのか?」
「え、えっと…」
適当にスマホゲームを気が向いた時にやるぐらいしか趣味らしい趣味がなかった。
「なんだろう…あはは…」
「じゃあそれも見つけていくといいよ」
「そうだね…」
辺りのイルミネーションのように瑠璃の未来もキラキラと輝き出した。
「おかえりなさいませ」
車が駐車し、降りたと同時に高橋が声をかけてくる。
「ああ、ただいま高橋さん」
「ただいま帰りました」
「今日の夕ご飯はなにに致しましょうか?」
「あ、そうだった」
今日のお昼休みはバタバタしていて、夕飯のリクエストをメールしてなかった。
「ああ、そのことなんだけど高橋さんと瑠璃でなにか作ってくれないか?」
「え?!」
瑠璃がぎょっときた目で孝太郎を見つめる。
高橋は特に変わった様子はなく
「かしこまりました。それでは瑠璃様はこちらへ」
「え、えっ…」
「じゃああとは任せたよ」
孝太郎はにこにこと手を振って瑠璃を見送った。
こうして瑠璃はキッチンへと来ていた。
「さて、瑠璃様、何を作りましょうか?」
「えっと〜」
瑠璃はキッチンをキョロキョロと見回す。
3口コンロに、大きな冷蔵庫、食器棚には上品で高価そうな食器たちが並んでいた。
「瑠璃様は普段お料理はされますか?」
「い、いや全然しないです…」
瑠璃は申し訳なさそうに下を向く。
「瑠璃様、大丈夫ですよ」
高橋は瑠璃の手を握る。
「料理は愛情ですから」
高橋はにっこりと微笑む。
「そうですね」
「それでは瑠璃様は手を洗ったあと、玉ねぎを切ってくださいませ」
「わ、わかりました」
瑠璃は手を洗うと、高橋から包丁を受け取る。
久しぶりに握った包丁は思っていたよりも重たく、が、意外と手に馴染んでくれた。
「どのように切ればいいですかね?」
「うーんそうですわね…」
瑠璃は高橋にレクチャーを受けながらなんとか料理を作り始めた。
「し、失礼します」
瑠璃は緊張した面持ちで食堂の襖を開ける。
「お、瑠璃、どうだったか?」
孝太郎は読んでいた新聞紙を適当に畳むと、姿勢を正す。
瑠璃は孝太郎の目の前にお皿を置く。
「シチューか美味そうだな」
「ちょっと水っぽいんだけどね…」
加えて不揃いに切られた野菜たち。
「いや、それでもこうして作ってくれたんだろう?嬉しいよ」
「はい、普段お作りにならないと仰ってたのに手際が宜しかったですのよ。瑠璃様は料理の才能あると思います」
高橋が嬉しそうに言う。
「そ、そうでしょうか…」
高橋の補助がなかったら何回指を切っていたか、数え切れないほどだった。
「それじゃあ頂くとするよ。ほら瑠璃も」
「う、うん…」
瑠璃も孝太郎の正面に座り、自分が作ったシチューを置く。
「いただきます」
孝太郎が手を合わせて、スプーンを持つ。
「うん、美味いよ瑠璃」
「よ、よかったぁ〜…」
一気に全身の力が抜ける。
「ほら、瑠璃様。やっぱり孝太郎様は喜んでくださいましたでしょ」
「はい、ありがとうございます高橋さん!色々と教えて下さって」
瑠璃は頭を下げる。
「とんでもございません!私はただサポートをしただけで、お作りになられたのは瑠璃様じゃありませんか」
「そのサポートがなかったらこうして作れなかったです」
「瑠璃様こそ…」
「まあまあ、瑠璃も高橋さんも落ち着いて。ほら、瑠璃冷めないうちに食べなよ。高橋さんももう遅いから今日は帰って。食器は俺たちで洗っておくから。今日もお疲れ様」
「かしこまりました。では私はこれで」
高橋は部屋を後にする。
「それじゃあ、私も食べようかな。いただきます」
瑠璃は手を合わせてからスプーンを持ち、シチューを1口食べる。
「あ…本当だ…美味しい…」
それは作った本人が1番びっくりしているが、美味しかった。
「私もやれば出来るんだなー…」
そんなことをぼんやりと呟くと
「そうだぞ、瑠璃。今度休みの日にでもまた作ってくれないか?」
「うん、作るよ。楽しかったし」
「それはよかった。なによりだよ」
高橋の教え方も上手く、まるで母親と料理をしている子供のような気分になれた。
「今度は何作ろうかなー」
好きな人のために作る料理は楽しく、美味しそうに食べてる姿を見るだけで満たされる。
「あー美味しかった」
瑠璃は孝太郎の部屋のふかふかの布団へダイブする。
「俺もだよ」
孝太郎も布団の隣へ寝そべる。
「急だったのに作ってくれてありがとうな」
孝太郎は瑠璃の頭を撫でる。
「もう、あの時は無茶振りされたって本当に焦ったんだから」
それでもこうして良い形におさまってよかった。
「はは。悪かった。さてと、俺は仕事が残ってるからまた先に風呂に入っててくれ」
孝太郎は布団から起き上がると自席に着き、パソコンを起動する。
「うん、わかった」
瑠璃はお風呂の栓を閉めようと、浴室へ向かった。
「あれ?」
浴室は昨日よりも明らかにピカピカになっていた。
シャンプーやボディーソープも詰め替えられていたし、浴槽も綺麗だった。
「これも高橋さんがやったんだろうな」
いずれは自分がやることになるだろう。
瑠璃はお風呂の栓を閉めると、沸かすスイッチを押す。
部屋に戻ると相変わらず孝太郎は真剣な眼差しで、書類とパソコンを交互に見ていた。
そんな姿をぼんやりと見ていると
「暇だろうからテレビでも観ててくれ」
と声をかけられた。
「うるさくない?大丈夫?」
「大丈夫だ、ほら」
瑠璃は孝太郎からテレビのリモコンを受け取る。
そしてテレビのスイッチを入れると、
「それでは本日のゲストは、新進気鋭の2.5次元俳優、金汰壱魔琴(きんだいちまこと)さんです!」
「どーも」
と紹介された青年は確かに相当な美形だったが、まだ若いからかどこか真面目さや誠実さが欠けていて、色々遊んでそうだなという印象を受けた。
「きゃ〜ぁ〜、魔琴様ぁ〜。姫華ぁ〜大ファンなんですぅ〜」
テレビで姫華がきゃーきゃー喜んでる。
今日の姫華の服装はいつもの着物ではなく、ツインテールでピンクを基調としたフリルとリボンがたっぷりついたドレス、いわゆるロリータファッションだった。
「この子、本当になんでも着こなすんだな…。ってまたテレビ出てるし…」
瑠璃は腕を組みながら関心して観ていた。
「この前の舞台も行きましたしぃ〜、来月発売の写真集は100冊買うつもりですわぁ〜」
「ありがとうございます。でもそんなに買っても特典会の内容は変わりませんよ」
魔琴はいたずらっ子のようにニヤリと微笑む。
瑠璃は不覚にもその微笑みに思わずドキッとしてしまった。
「相手は2.5次元俳優…雲の上の存在…それに私には孝太郎さんがいる…」
瑠璃は胸に手を当て、自分を落ち着かせる。
「えぇ〜そぉなんですかぁ〜。それでも100冊買いますわぁ〜。姫華ぁ〜魔琴様にぃ〜少しでもこぉ〜けんしたいですものぉ〜。なんならもっと買ってもいいぐらいですわぁ〜」
「へえ〜、2.5次元俳優って写真集出す時、特典会なんてするんだ。それに対して100冊買うって宣言する早乙女姫華も凄いけど…」
さすがはお嬢様である。
「ありがとうございます。無理はなさらないでくださいね。そういうわけで、来月発売のファースト写真集よろしくお願いします!2冊以上購入でサイン入れ、3冊以上購入で握手会やります!」
そんな話を聞いているうちに、お風呂が沸いたことを知らせる音楽が流れる。
「あ、それじゃあ私、入ってきちゃうね」
「わかった、ゆっくり入っておいで」
瑠璃はテレビを消すと、入浴するための準備を始めた。
「はぁ〜あったまる〜」
瑠璃は昨日よりも綺麗な浴槽で大きく伸びをする。
「誰だって掃除が行き届いた部屋で生活したいもんね」
こうして浴槽に汚れがないと言うだけで、気分が良かった。
孝太郎にもそうやって生活してほしい。
「そのためにも私が頑張らなくっちゃ。料理も家事も積極的にこなしていきたいな」
家を守るということはそういうことだろう。こういうことで、孝太郎のサポートをしていきたかった。
「よし、頑張るぞ!」
瑠璃はそう決心すると浴室を後にした。
「上がったよ〜」
瑠璃はタオルを頭から被り、タイピングをしている孝太郎に告げる。
「おお、おかえり」
孝太郎は立ち上がり、瑠璃を抱きしめる。
「いい匂いがする…」
「孝太郎さんと同じシャンプーとボディーソープだから、自分からも同じ匂いすると思うよ」
「いや、瑠璃の方がずっといい匂いだ」
そういうと孝太郎は瑠璃にキスをする。
「俺も風呂入ってくる。今日は一緒にゆっくり休もう」
「うん。わかった」
孝太郎は浴室へ向かい、瑠璃はタオルドライを始めた。
スキンケアとドライヤーを一通り終え、ソファーに座り、お茶を飲んで一服してると、孝太郎が浴室から出てきた。
まさに水も滴るいい男とはこのことで、入浴直後の孝太郎はやけに色っぽかった。
「あ、孝太郎さんもお茶飲む?」
瑠璃はそんな照れを誤魔化すように孝太郎にお茶を勧める。
「ああ、じゃあ飲もうかな」
孝太郎は隣へ座る。
「どうぞ」
瑠璃は湯呑みを持ってきて、孝太郎の前に置き、お茶を注ぐ。
「ありがとう。いただくよ」
孝太郎はお茶を飲む姿すら絵になる。
「瑠璃?どうかした?」
「あ」
孝太郎の姿に見惚れてしまっていた。
「なんでもない。おかわりいる?」
「いや、大丈夫だ。ありがとう。髪の毛乾かしてくる」
「うん」
「先、布団入ってていいから」
孝太郎は洗面所へ向かった。
布団がめくれて、孝太郎が入ってくる。
瑠璃はスマホを触っていたが、電源を落とす。
「瑠璃…」
孝太郎が抱きしめてくる。
布団の中で聞く彼の声は、どうしてこんなにも艶っぽいのだろうか。
「孝太郎さん…」
瑠璃も孝太郎を強く抱きしめる。
「今日は疲れてるだろうからこのまま寝ようか」
「う、うん…そうだね…」
(そっか〜、少し残念だな…)
「それともしようか?」
孝太郎が試すように聞いてくる。
「わ、私は別に…」
そこから先は言葉が出てこなかった。
「どうしたい?」
「したいです…」
瑠璃は小声で呟く。
「よく言えました」
今夜は瑠璃を気遣ってか控えめに終わった。
瑠璃はいつも通り、襖をノックする音で目が覚めた。
「孝太郎様〜、瑠璃様〜、お目覚めでしょうか?」
「はい、起きます」
「起きてるよ」
自分の頭の上から声がする。
「お食事のご用意が出来ましたので、召し上がっていって下さいませ」
「わかりました〜。毎日ありがとうございます」
瑠璃は孝太郎の腕の中から脱出しようとすると、
「おはよう」
おでこにキスをされる。
「うん、おはよう。孝太郎さん」
「今日は寒いなー」
孝太郎は瑠璃を強く抱きしめる。
「ねー」
「このまま2度寝しちゃいそうだ」
孝太郎は小さく欠伸をする。
「でも起きないと」
孝太郎は瑠璃を抱きしめていた腕の力を緩める。
瑠璃は孝太郎の腕の中からやっと脱出すると、散らばっている下着類を集め始める。
「俺も起きないとなー」
孝太郎は布団から出ると、仕事に行く準備を始めた。
「それじゃあ終わったらまたメールしてくれ」
「わかった。今日も送ってくれてありがとう」
瑠璃は孝太郎が運転する車に手を振る。
しばらくすると姿が見えくなったので、病院へ向かう。
「おはようございます〜」
病院のドアを開けると
「あらぁ〜ごきげんよぉ〜」
聞き覚えがある甘ったるい声がする。
「え!?早乙女姫華…さん!?」
姫華は瑠璃が働いている病院の制服を着て、にこやかに受付に座っていた。
「お嬢様、そこはごきげんようではなく、おはようございますですよ」
「あ〜、野村(のむら)ぁ〜、そうでしたわねぇ〜気をつけますわぁ〜。って姫華のことぉ〜覚えていてくれて嬉しいですわぁ〜。今日からよろしくお願いしま〜す〜」
傍には野村と呼ばれた、あの時ブランケットと食事を持ってきてくれた女性と、苦い顔をした渡辺が立っていた。
「医院長これどういうことなんですか?」
「いや〜、昨日姫華ちゃんのお父さん直々に病院へやってきてさ〜、娘をどうか働かせてくれないだろうかって頭下げられちゃって」
「それで働かせることにしたんですか?」
「そうそう」
「姫華ぁ〜今、お金が無くてぇ〜ピンチなんですぅ〜」
「お金が無い?」
大富豪のお嬢様のはずだ。
そんなはずはないだろう。
「はいぃ〜魔琴様の写真集を100冊買いたいんですけどぉ〜、おか〜ぁ様が50冊分しかお金を出してくれないそうなのでぇ〜あとは自分で稼ぐしかないかなぁ〜ってぇ」
「お嬢様は源十郎様に甘やかされすぎです。京華(きょうか)様がお怒りになるのも無理はありませんわ」
「な、なるほど…」
しかし芸能活動や動画投稿の広告収入などがあるため、そんなことをしなくても大丈夫そうに思えたが
「あとはぁ〜こぉ〜たろ〜様の婚約者の仕事ってどんなものなのか体験してみたくってぇ〜」
「へぇ?」
「そぉしたらぁ〜こぉ〜たろ〜様が望む女性に近づけるかなぁ〜ってぇ」
お嬢様の思考はどうもよくわからない。
「なあそれって結局こぉ〜たろ〜様?と魔琴様?どっちが好きなんだよ」
渡辺がツッコミを入れる。
「う〜ん、こぉ〜たろ〜様はぁ〜婚約者としていいなぁ〜って思っててぇ〜、魔琴様は推しですわぁ〜」
(あ、意外としっかり考えてた)
「お嬢様ではまだまだ至らない点があると思いますので、サポートは私が」
野村は深々と頭を下げる。
「という訳だ。姫華ちゃんはまだ大学生だからパート、野村さんは正社員として雇うことにした。浅田、これでいつでも辞めていいからな」
渡辺は満足そうに微笑む。
「わ、わかりました。よろしくお願いします」
「こちらこそですわぁ〜」
「はいぃ〜渡辺クリニックですわぁ〜。え?えっとぉ〜お電話代わりますわねぇ〜。浅田様ぁ〜なんか電話相手の方が訳分からないこと言ってきてぇ〜」
と受話器をこちらに向けてくる。
「え!わかりました電話代ります。お待たせ致しました。渡辺クリニックです」
「おお、いつもの受付のねーちゃんだ。診察時間を変更したのだが…」
電話相手は80代ほどの男性だった。
確かにしゃがれ声に加えて、滑舌が悪く所々聞き取りにくい箇所がある。
が、そんなの瑠璃は慣れていた。
「かしこまりました。何時に変更致しましょうか?」
「それじゃあ火曜日の10時に」
「火曜日の10時ですね。空いていますので予約入れておきます」
「ああ、頼んだよ。それじゃあまた」
と電話が切れた。
「ふぅ…なんだこんなことか」
安心して受話器を置くと
「凄いですわぁ〜浅田様ぁ〜」
「わっ、ちょっ…」
姫華に抱きつかれる。
ふわりと、いい匂いがする。
「姫華じゃぁ〜絶対たいぉ〜できなかったのに、あんなにあっさりとこなしてしまうなんてぇ〜」
「それくらい普通ですって…」
「さすがはこぉ〜たろ〜様の婚約者ですわぁ〜、姫華ぁ〜かんどぉ〜しましたぁ〜」
「大袈裟ですって。あと今は仕事中なので離れてください」
「わかりましたぁ〜」
姫華は瑠璃から離れる。
「ふぅ…やっと仕事が出来る…」
「浅田さん、これ終わりました。確認お願いします」
野村が先程渡したレセプトを持ってきた。
「え、もうできたんですか?」
確かほんの数十分前に渡したばかりだった。
しかも、わからないところは聞いてくれてと言ったきり1度も聞きに来なかった。
「医療事務の資格を持っておりますので、これくらいは」
野村が淡々と告げる。
「ああ、そうだったんですね。確認します」
「浅田様ぁ〜、野村ぁ〜こちらのお客様がぁ〜」
「お嬢様、職場の先輩には様付けで呼ぶのではなくさんで呼ぶんですよ。どうかなさいましたか?」
野村が素早くフォローに入る。
「凄い…」
野村が書いたレセプトを見ると完璧に出来ていて、入力ミスや写し間違えなどもなかった。
「初めてでこんなにできるって有能すぎない?」
もしかしたら早乙女家で働く前は医療事務の仕事をしていたのかもしれない。
姫華の仕事のできなさは拭いきれないかと思ったが、野村がこんなにも優秀なのでなんとかなった。
そして昼休みになった。
「あーなんか疲れたー」
瑠璃は机に突っ伏す。
結局姫華は持ち前の人懐っこさと、美貌を駆使して病院の患者たちをメロメロにしていた。
少しでもミスすると野村が完璧にフォローし、姫華が申し訳なさそうに謝ると「いいんだよ、まだ若いんだし」と全員から笑顔で許されていた。
「あーあ、私も美人に生まれたかったなー。世の中不公平だ」
と、スマホが鳴る。
確認してみると、孝太郎から夕飯が何がいいかという内容だった。
「うーん、どうしよう」
またなにか和風なものを考えるが一向に出てこない。
「うーん。あ、いっそ、中華とか?」
瑠璃は餃子が食べたいです。と返信した。
「お疲れ様でした〜」
「お疲れ様でしたぁ〜」
瑠璃は病院をあとにする。
孝太郎の車はもう着いており、瑠璃を見つけると手を振ってきた。
「お待たせ」
瑠璃は車に乗り込む。
「いや、今来たところだから気にしないでくれ。今日はどうだった?」
「そうそう、なんと早乙女姫華とその使用人が病院で働くことになってさ〜」
「それはすごいな…」
孝太郎は苦笑いをする。
「でしょ?もうビックリしたよ〜」
「そうしたらいつでも仕事辞めれるな」
「う、うん。そうだね。医院長も言ってたよ」
「そうか」
「はは、来週には辞めようかなーなんて」
「いいんじゃないか」
「うん…」
「もしかしてまだ迷ってるのか?」
「いやそんなことはないよ。ただ考え深いなーって」
新卒からずっと勤めていた職場だ。
それを寿退社するだなんて思ってもいなかった。
「人生何があるかわからないね」
「本当だな」
孝太郎の運転していた車が駐車場に停る。
車から降りると
「お帰りなさいませ」
高橋が出迎える。
「ただいま帰りました〜」
「ただいま。高橋さん」
「本日は中華料理ですよ〜」
「わぁ〜ありがとうございます。食べるのが楽しみです」
「それじゃあ行こうか瑠璃」
「うん」
孝太郎が瑠璃の腰に手を回す。
「春香、声大きいって」
「あ、ごめんごめん」
土曜日、瑠璃は春香と共にいつものカフェへ来ていた。
近状報告として以前孝太郎に言われたことを話すと、反応はプロポーズされた時と同じようなものだった。
「ってことは寿退社ってこと?あーいいなー」
春香はフォークを片手に天井に向かって叫ぶ。
「うーん確かにそうなるよね…」
「相変わらず浮かない顔しちゃってさ〜」
「今の仕事は好きだし、仕事辞めて専業主婦になるほど家事できる訳じゃないし…」
「でも彼は少しづつでいいって言ってくれてるんでしょ?ならいいじゃん。あーあ、私にもそんな風に言ってくれる白馬に乗った王子様現れないかなー」
「白馬に乗った王子様って…」
瑠璃は烏龍茶を1口飲むと苦笑いする。
「だって今どきいないよ?専業主婦になって欲しいなんて言う人」
「まあねー」
瑠璃はストローから口を離すと、くるくると回す。
「そうだ。結婚式どこであげるの?軽井沢?ハワイ?」
「ちょっと、春香気が早いって」
瑠璃は早口に否定する。
「そんなの時間の問題じゃんか〜。絶対招待してよね」
「う、うんわかった…」
「それに比べて私は出会いすらないやー。あの時シャンパンがかかったのが私だったらよかったのに〜」
「そういえば、シャンパンがかかってなかったらこうして出会うことすらなかったのか…」
瑠璃は神妙な顔で烏龍茶を見つめる。
あの時は不運なことが起きたとばかり思っていたのに、まさかこんなことになるなんて。
「それでもあの時、春香が背中を押してくれなかったらお近ずきになれないままだったよ」
ハンカチを返すか返すまいかで悩んでた、瑠璃を後押ししてくれたのは春香だった。
「瑠璃〜、それ結婚式のスピーチで言うから」
「う、うん…」
相変わらず気が早い春香だった。
春香とお開きになったことを孝太郎へとメールする。
外に出ると随分と寒く、暗くなっていた。
すっかり話し込んでしまったようだ。
自力で帰ると言ったのだが、あんな事件があってすぐだ。
危ないから送り迎えをさせてほしいとのことだった。
しばらくすると孝太郎の運転する車が、瑠璃の目の前を止まる。
「今回もありがとうね」
お礼を言いながら助手席のドアを開ける。
「気にしないでくれ」
孝太郎は瑠璃の頬にキスをする。
「今日も友達と話せてきたか?」
「うん、友達ったら気が早くて困っちゃったよ〜」
「気が早いって?」
「あ…えっと…」
瑠璃は口を閉ざす。
「どういう意味?」
「け、結婚式どこで挙げるの?とか聞かれて…」
「ああ、なるほどね。そういうことか。瑠璃はどこで挙げたい?」
「え?私?私は…」
突然の問いかけに答えに詰まる。
結婚式だなんて今まで考えてなかった。
「パ、パリとかいいんじゃないかな?出会った場所でもあるし」
なんて適当にはぐらかす。
「パリかー、確かに出会った場所だしいいかもなー」
孝太郎が満更でもなさそうに言う。
「でもそんな結婚式なんていきなりすぎて…」
孝太郎は瑠璃の手をぎゅっと握る。
「よさげな会場、一緒に探そう」
「そ、そうだね」
「素敵な式にしような」
「うん…」
握られてた手に力が入る。
「おかえりなさいませ」
「ただいま帰りました」
高橋がぺこりと頭を下げるのにつられて、瑠璃も下げる。
「高橋さん、こんな遅くまですまない。今日はもう帰ってくれ」
「いえいえ、留守を守るのが私の仕事ですから」
留守を守るという単語に瑠璃はピクっとした。
いずれは自分もそうなる身だ。
今からでも高橋の仕事っぷりを見ておいた方がいいかもしれない。
瑠璃は高橋をじっと観察する。
いつも元気で笑顔で迎えてくれて、こちらまで元気と笑顔を貰えるような存在だった。
そんな存在に自分もなれるだろうか?
「…り?瑠璃?どうかしたか」
「!!う、ううんなんでもない」
「じゃあ俺達は部屋へ行くから。高橋さんお疲れ様」
「お疲れ様です」
「ありがとうございます。お2人共、お疲れ様でございました」
孝太郎の部屋へ着くといきなり抱きしめられた。
「どうかしたの?」
「いや、なんでも。ただ瑠璃を抱きしめてると落ち着くんだ」
前にもそんなことを言われた気がした。
「今日は特に仕事は残ってないんだ。一緒にテレビでも観るか」
そういうと孝太郎はテレビのスイッチを入れ、瑠璃を横抱きするとソファーへ座らせた。
「孝太郎さんの部屋でテレビ観るの初めてかも」
「はは。ずっと仕事の残りをしてばかりだったもんな」
「そうそう、だからこうして一緒にテレビ観るの新鮮」
見覚えがあるのは書類とパソコンを交互に見る、真剣な眼差しだった。
それを見るのは瑠璃は好きだったが、こうして隣で同じものを見つめる眼差しもいいなと幸せに満ち溢れていた。
「そぉ〜なんですぅ〜、姫華ぁ〜大失恋してぇ〜、ぜぇ〜ったいその人のこと見返すって決めたんですぅ〜」
テレビから聞き覚えがある声がする。
「あ、早乙女姫華だ」
瑠璃は咄嗟にその名前を口に出す。
黒地に百合の刺繍が入った着物を着ていた。
姫華の真っ白な肌がよく映えていた。
「テレビにも出るんだなー。普段観ないから全然知らなかったよ」
「みたいだねー。私も普段観ないから初めて出てるの観た」
「…」
「孝太郎さん?」
返事がないので横をチラと見ると孝太郎は目を閉じていた。
「寝ちゃったのかな?」
しばらくすると微かに寝息が聞こえてきた。
「へえー、姫華ちゃんみたいな可愛い子を振る男なんているんだねー」
テレビからそんな声が聞こえてきた。
「そぉ〜なんですぅ〜。もぉ〜びっくりしましたぁ〜」
振った本人は現在夢の中である。
「でも姫華ちゃんほどの家柄の子だったら、許嫁とかいるんじゃないの?」
「確かに」
瑠璃は思わずテレビに向かって相槌を打ってしまった。
「あぁ〜、いたんですけどぉ〜断っちゃいましたぁ〜。とっても暗い方でぇ〜こっちまで暗くなるような方でしたわぁ〜」
「断っちゃいましたって…」
瑠璃は呆れたように言う。
そんな簡単に断れるものなのだろうか?
いやあの父親だったらなんでもするだろうから、きっとどんな手段を使ってでも断ったのだろう。
瑠璃を誘拐した時のように。
「そうだったんだね。それは大変だ。ところで姫華ちゃん…」
「ふぁ〜…なんだか私も眠くなってきちゃった…」
瑠璃も目を閉じた。
隣から感じる孝太郎のぬくもりが心地いい。
カタカタと何かを叩く音で瑠璃は目を覚ました。
起きると毛布がかかっており、ソファーの上だった。
(そうだ、あのまま寝落ちしちゃって、それで…)
瑠璃は後ろを振り返ると、パソコンに向かってタイピングしてる孝太郎と目が合った。
「おはよう、瑠璃。起こしちゃったかな」
孝太郎はスーツ姿で、仕事に行く準備を済ませてあった。
「ううん、大丈夫」
瑠璃はソファーから起き上がる。
時刻を確認すると5時半。
随分と寝てたみたいだ。
「風呂さっき沸かしたばっかりだから入ってきちゃって」
「わかったありがとう」
瑠璃はコンタクトを外したり、タオルを用意したり入浴するための準備を始めた。
「ふぅ〜まさかあんなに寝てたなんて」
瑠璃は浴槽の中で大きく伸びをする。
ふかふかのソファーで寝てたため身体が痛いことはなかったが、寝返りがうちにくいため若干身体がなまっている。
孝太郎が入浴したばかりのため、浴室の中が使っているシャンプーの匂いで溢れてドキドキする。
「ここのシャンプーとボディーソープ使うようになってから髪と肌の調子がいいんだよねー」
一体どこのを使っているのだろうか。
パッケージを確認してもそれらしいメーカー名は書いてない。
「あとで孝太郎さんに聞いてみよう」
そういうと瑠璃は浴室を後にした。
「おお瑠璃あがったのか」
孝太郎が机から顔を上げて瑠璃を見る。
「うん、さっぱりした〜。ってそうそう孝太郎さん使ってるシャンプーとボディーソープってどこの?」
瑠璃はタオルで髪の毛を拭きながら言う。
「あーそこら辺はみんな高橋さんに任せてるんだ。今度聞いておくよ」
「そうなんだ。わかった」
(家の事、殆ど高橋さんに任せっぱなしなんだな)
多忙な外交官なのだから仕方がない。
結婚してからはそういう細かいことも自分でやることになるだろう。
「頑張らないと…」
瑠璃は小声で呟く。
コンコンコンと襖をノックする音がする。
「はいー」
メイク中の瑠璃が返事をすると
「瑠璃様お目覚めで何よりです。孝太郎様もお目覚めでしょうか?」
「ああ、起きてるよ」
「かしこまりました。お食事の用意ができていますので召し上がっていってくださいませ。それでは」
「また高崎さんの料理食べれるー」
「ああ沢山食べてくれ。それじゃあ準備が出来次第、食堂へ向かうとするか」
「うん、ちょっとまっててね」
「ゆっくりでいいよ」
「ありがとう」
食堂の襖を開けるといつも通り香ばしい匂いがしてきた。
机の上を見るとご飯、大根の味噌汁、鰤の照り焼き、百合根の茶碗蒸しに肉じゃが、小鉢には白菜の漬物が入っていた。
「今日も美味しそうー」
瑠璃は嬉しそうに座布団に正座をする。
「だなー」
孝太郎も机を挟んで正面に腰を下ろす。
「それじゃあいただきます」
瑠璃は手を合わせると朝食を食べ始めた。
「今日もいつもの時間に終わると思うから」
職場まで送って貰った瑠璃は孝太郎にそう告げる。
「わかったよ、今日も頑張って」
「孝太郎さんもね」
「ああ、ありがとう」
そう言うと車が発進した。
(今日、医院長に言おう…)
瑠璃は覚悟を決めると、病院へ向かって歩き出した。
「おはようございます〜」
瑠璃は病院のドアを開ける。
「あら、浅田さん。おはよう」
「おはよう。浅田さん」
皆もうすっかり、瑠璃の全身ブランド品コーデとデパコス顔に驚かなくなってしまって、少し寂しさがあった。
(あの時は人気者気分だったのにな…)
あんなに口々に褒められたことなんて、これから先一生ないかもしれない。
「お〜浅田、おはよう」
「あ、医院長。おはようございます」
医院長の姿を見ると、無意識に背筋がピンと伸びてしまった。
「おお、どうした〜そんな身構えて」
「いや〜特には…あはは。着替えてきまーす」
瑠璃は適当に誤魔化すと足早に更衣室へ向かった。
昼休み。
いつも通り、早々にコンビニのパンを食べ終えた瑠璃は診察室の前へ来ていた。
コンコンコン。
瑠璃は診察室のドアをノックする。
「どーぞー」
緊張している瑠璃とは対照的に随分と気の抜けた声が聞こえたので、ドアを開ける。
「失礼します。あの医院長」
「お、なんだ〜浅田か。どうした〜?寿退社の相談か?」
渡辺が書類を片手に冗談っぽく言う。
「はい。実はそうなんです」
「え?マジで?」
渡辺は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてこちらを振り向く。
「やー、まさか本当だったとは…。よかったな浅田」
「ありがとうございます。来月か再来月には辞めようかと思ってまして…」
「おー、わかった。それまでにこっちも新しい人見つけておくわー」
「すみません。ご迷惑をおかけてしますが最後までよろしくお願いします」
「迷惑なんてとんでもない。おめでたい事じゃないか。他の人には話したのか?」
「いえまだです。私の口から伝えたいのですが、中々タイミングがなくって」
「おおそうかー、本当に困ったら言えよ。俺から言っておくから」
頼もしい上司で心強かった。
「ありがとうございます」
瑠璃は頭を下げると、診察室を後にした。
「よかった、伝えられて」
瑠璃はホッとしたように診察室のドアに寄りかかる。
「あとは春香にも伝えておこっと」
瑠璃はスマホを起動すると、孝太郎からメールが来ていた。
また晩御飯のことだろう。
「今日は何にしようかな」
そんなことを考えながら休憩室へ戻っていった。
「お疲れ様でした〜」
瑠璃は元気よく職場の人たちへ挨拶をする。
病院のドアを開けると、冷たい風が一気に吹き込んできた。
「う〜さむっ…」
瑠璃は両手を擦り合わせる。
と、孝太郎の運転する車が瑠璃の前に来た。
「お疲れ様〜今日もありがとう〜」
助手席のドアを開けながら言う。
「お疲れ様、今日はどうだった?」
「あ〜今日はね…」
瑠璃は外のイルミネーションを眺めながら
「近々仕事辞めますって医院長に言ってきた」
「それって…」
「う、うん…」
瑠璃は急に恥ずかしくなって自分の手を握る。
「ありがとう、嬉しいよ」
孝太郎が瑠璃の頭を撫でる。
「だいぶ驚かれちゃったけどね…」
「そっかそっか」
孝太郎はご機嫌だった。
「でも本当に家事とか何にもできないけど…」
「言ったろ?そんなのは少しづつでいいって」
「うん…」
「高橋さんに聞いたら喜んで教えてくれそうだなー。あ、でも私の仕事ですからって言って瑠璃には一切やらせないかもなー」
「えーじゃあ私の仕事はどうなるのー?」
「だったらなにか好きなことをやるといいよ」
「好きなこと?」
そんな緩いことが瑠璃の仕事になるのだろうか。
「なにかないのか?」
「え、えっと…」
適当にスマホゲームを気が向いた時にやるぐらいしか趣味らしい趣味がなかった。
「なんだろう…あはは…」
「じゃあそれも見つけていくといいよ」
「そうだね…」
辺りのイルミネーションのように瑠璃の未来もキラキラと輝き出した。
「おかえりなさいませ」
車が駐車し、降りたと同時に高橋が声をかけてくる。
「ああ、ただいま高橋さん」
「ただいま帰りました」
「今日の夕ご飯はなにに致しましょうか?」
「あ、そうだった」
今日のお昼休みはバタバタしていて、夕飯のリクエストをメールしてなかった。
「ああ、そのことなんだけど高橋さんと瑠璃でなにか作ってくれないか?」
「え?!」
瑠璃がぎょっときた目で孝太郎を見つめる。
高橋は特に変わった様子はなく
「かしこまりました。それでは瑠璃様はこちらへ」
「え、えっ…」
「じゃああとは任せたよ」
孝太郎はにこにこと手を振って瑠璃を見送った。
こうして瑠璃はキッチンへと来ていた。
「さて、瑠璃様、何を作りましょうか?」
「えっと〜」
瑠璃はキッチンをキョロキョロと見回す。
3口コンロに、大きな冷蔵庫、食器棚には上品で高価そうな食器たちが並んでいた。
「瑠璃様は普段お料理はされますか?」
「い、いや全然しないです…」
瑠璃は申し訳なさそうに下を向く。
「瑠璃様、大丈夫ですよ」
高橋は瑠璃の手を握る。
「料理は愛情ですから」
高橋はにっこりと微笑む。
「そうですね」
「それでは瑠璃様は手を洗ったあと、玉ねぎを切ってくださいませ」
「わ、わかりました」
瑠璃は手を洗うと、高橋から包丁を受け取る。
久しぶりに握った包丁は思っていたよりも重たく、が、意外と手に馴染んでくれた。
「どのように切ればいいですかね?」
「うーんそうですわね…」
瑠璃は高橋にレクチャーを受けながらなんとか料理を作り始めた。
「し、失礼します」
瑠璃は緊張した面持ちで食堂の襖を開ける。
「お、瑠璃、どうだったか?」
孝太郎は読んでいた新聞紙を適当に畳むと、姿勢を正す。
瑠璃は孝太郎の目の前にお皿を置く。
「シチューか美味そうだな」
「ちょっと水っぽいんだけどね…」
加えて不揃いに切られた野菜たち。
「いや、それでもこうして作ってくれたんだろう?嬉しいよ」
「はい、普段お作りにならないと仰ってたのに手際が宜しかったですのよ。瑠璃様は料理の才能あると思います」
高橋が嬉しそうに言う。
「そ、そうでしょうか…」
高橋の補助がなかったら何回指を切っていたか、数え切れないほどだった。
「それじゃあ頂くとするよ。ほら瑠璃も」
「う、うん…」
瑠璃も孝太郎の正面に座り、自分が作ったシチューを置く。
「いただきます」
孝太郎が手を合わせて、スプーンを持つ。
「うん、美味いよ瑠璃」
「よ、よかったぁ〜…」
一気に全身の力が抜ける。
「ほら、瑠璃様。やっぱり孝太郎様は喜んでくださいましたでしょ」
「はい、ありがとうございます高橋さん!色々と教えて下さって」
瑠璃は頭を下げる。
「とんでもございません!私はただサポートをしただけで、お作りになられたのは瑠璃様じゃありませんか」
「そのサポートがなかったらこうして作れなかったです」
「瑠璃様こそ…」
「まあまあ、瑠璃も高橋さんも落ち着いて。ほら、瑠璃冷めないうちに食べなよ。高橋さんももう遅いから今日は帰って。食器は俺たちで洗っておくから。今日もお疲れ様」
「かしこまりました。では私はこれで」
高橋は部屋を後にする。
「それじゃあ、私も食べようかな。いただきます」
瑠璃は手を合わせてからスプーンを持ち、シチューを1口食べる。
「あ…本当だ…美味しい…」
それは作った本人が1番びっくりしているが、美味しかった。
「私もやれば出来るんだなー…」
そんなことをぼんやりと呟くと
「そうだぞ、瑠璃。今度休みの日にでもまた作ってくれないか?」
「うん、作るよ。楽しかったし」
「それはよかった。なによりだよ」
高橋の教え方も上手く、まるで母親と料理をしている子供のような気分になれた。
「今度は何作ろうかなー」
好きな人のために作る料理は楽しく、美味しそうに食べてる姿を見るだけで満たされる。
「あー美味しかった」
瑠璃は孝太郎の部屋のふかふかの布団へダイブする。
「俺もだよ」
孝太郎も布団の隣へ寝そべる。
「急だったのに作ってくれてありがとうな」
孝太郎は瑠璃の頭を撫でる。
「もう、あの時は無茶振りされたって本当に焦ったんだから」
それでもこうして良い形におさまってよかった。
「はは。悪かった。さてと、俺は仕事が残ってるからまた先に風呂に入っててくれ」
孝太郎は布団から起き上がると自席に着き、パソコンを起動する。
「うん、わかった」
瑠璃はお風呂の栓を閉めようと、浴室へ向かった。
「あれ?」
浴室は昨日よりも明らかにピカピカになっていた。
シャンプーやボディーソープも詰め替えられていたし、浴槽も綺麗だった。
「これも高橋さんがやったんだろうな」
いずれは自分がやることになるだろう。
瑠璃はお風呂の栓を閉めると、沸かすスイッチを押す。
部屋に戻ると相変わらず孝太郎は真剣な眼差しで、書類とパソコンを交互に見ていた。
そんな姿をぼんやりと見ていると
「暇だろうからテレビでも観ててくれ」
と声をかけられた。
「うるさくない?大丈夫?」
「大丈夫だ、ほら」
瑠璃は孝太郎からテレビのリモコンを受け取る。
そしてテレビのスイッチを入れると、
「それでは本日のゲストは、新進気鋭の2.5次元俳優、金汰壱魔琴(きんだいちまこと)さんです!」
「どーも」
と紹介された青年は確かに相当な美形だったが、まだ若いからかどこか真面目さや誠実さが欠けていて、色々遊んでそうだなという印象を受けた。
「きゃ〜ぁ〜、魔琴様ぁ〜。姫華ぁ〜大ファンなんですぅ〜」
テレビで姫華がきゃーきゃー喜んでる。
今日の姫華の服装はいつもの着物ではなく、ツインテールでピンクを基調としたフリルとリボンがたっぷりついたドレス、いわゆるロリータファッションだった。
「この子、本当になんでも着こなすんだな…。ってまたテレビ出てるし…」
瑠璃は腕を組みながら関心して観ていた。
「この前の舞台も行きましたしぃ〜、来月発売の写真集は100冊買うつもりですわぁ〜」
「ありがとうございます。でもそんなに買っても特典会の内容は変わりませんよ」
魔琴はいたずらっ子のようにニヤリと微笑む。
瑠璃は不覚にもその微笑みに思わずドキッとしてしまった。
「相手は2.5次元俳優…雲の上の存在…それに私には孝太郎さんがいる…」
瑠璃は胸に手を当て、自分を落ち着かせる。
「えぇ〜そぉなんですかぁ〜。それでも100冊買いますわぁ〜。姫華ぁ〜魔琴様にぃ〜少しでもこぉ〜けんしたいですものぉ〜。なんならもっと買ってもいいぐらいですわぁ〜」
「へえ〜、2.5次元俳優って写真集出す時、特典会なんてするんだ。それに対して100冊買うって宣言する早乙女姫華も凄いけど…」
さすがはお嬢様である。
「ありがとうございます。無理はなさらないでくださいね。そういうわけで、来月発売のファースト写真集よろしくお願いします!2冊以上購入でサイン入れ、3冊以上購入で握手会やります!」
そんな話を聞いているうちに、お風呂が沸いたことを知らせる音楽が流れる。
「あ、それじゃあ私、入ってきちゃうね」
「わかった、ゆっくり入っておいで」
瑠璃はテレビを消すと、入浴するための準備を始めた。
「はぁ〜あったまる〜」
瑠璃は昨日よりも綺麗な浴槽で大きく伸びをする。
「誰だって掃除が行き届いた部屋で生活したいもんね」
こうして浴槽に汚れがないと言うだけで、気分が良かった。
孝太郎にもそうやって生活してほしい。
「そのためにも私が頑張らなくっちゃ。料理も家事も積極的にこなしていきたいな」
家を守るということはそういうことだろう。こういうことで、孝太郎のサポートをしていきたかった。
「よし、頑張るぞ!」
瑠璃はそう決心すると浴室を後にした。
「上がったよ〜」
瑠璃はタオルを頭から被り、タイピングをしている孝太郎に告げる。
「おお、おかえり」
孝太郎は立ち上がり、瑠璃を抱きしめる。
「いい匂いがする…」
「孝太郎さんと同じシャンプーとボディーソープだから、自分からも同じ匂いすると思うよ」
「いや、瑠璃の方がずっといい匂いだ」
そういうと孝太郎は瑠璃にキスをする。
「俺も風呂入ってくる。今日は一緒にゆっくり休もう」
「うん。わかった」
孝太郎は浴室へ向かい、瑠璃はタオルドライを始めた。
スキンケアとドライヤーを一通り終え、ソファーに座り、お茶を飲んで一服してると、孝太郎が浴室から出てきた。
まさに水も滴るいい男とはこのことで、入浴直後の孝太郎はやけに色っぽかった。
「あ、孝太郎さんもお茶飲む?」
瑠璃はそんな照れを誤魔化すように孝太郎にお茶を勧める。
「ああ、じゃあ飲もうかな」
孝太郎は隣へ座る。
「どうぞ」
瑠璃は湯呑みを持ってきて、孝太郎の前に置き、お茶を注ぐ。
「ありがとう。いただくよ」
孝太郎はお茶を飲む姿すら絵になる。
「瑠璃?どうかした?」
「あ」
孝太郎の姿に見惚れてしまっていた。
「なんでもない。おかわりいる?」
「いや、大丈夫だ。ありがとう。髪の毛乾かしてくる」
「うん」
「先、布団入ってていいから」
孝太郎は洗面所へ向かった。
布団がめくれて、孝太郎が入ってくる。
瑠璃はスマホを触っていたが、電源を落とす。
「瑠璃…」
孝太郎が抱きしめてくる。
布団の中で聞く彼の声は、どうしてこんなにも艶っぽいのだろうか。
「孝太郎さん…」
瑠璃も孝太郎を強く抱きしめる。
「今日は疲れてるだろうからこのまま寝ようか」
「う、うん…そうだね…」
(そっか〜、少し残念だな…)
「それともしようか?」
孝太郎が試すように聞いてくる。
「わ、私は別に…」
そこから先は言葉が出てこなかった。
「どうしたい?」
「したいです…」
瑠璃は小声で呟く。
「よく言えました」
今夜は瑠璃を気遣ってか控えめに終わった。
瑠璃はいつも通り、襖をノックする音で目が覚めた。
「孝太郎様〜、瑠璃様〜、お目覚めでしょうか?」
「はい、起きます」
「起きてるよ」
自分の頭の上から声がする。
「お食事のご用意が出来ましたので、召し上がっていって下さいませ」
「わかりました〜。毎日ありがとうございます」
瑠璃は孝太郎の腕の中から脱出しようとすると、
「おはよう」
おでこにキスをされる。
「うん、おはよう。孝太郎さん」
「今日は寒いなー」
孝太郎は瑠璃を強く抱きしめる。
「ねー」
「このまま2度寝しちゃいそうだ」
孝太郎は小さく欠伸をする。
「でも起きないと」
孝太郎は瑠璃を抱きしめていた腕の力を緩める。
瑠璃は孝太郎の腕の中からやっと脱出すると、散らばっている下着類を集め始める。
「俺も起きないとなー」
孝太郎は布団から出ると、仕事に行く準備を始めた。
「それじゃあ終わったらまたメールしてくれ」
「わかった。今日も送ってくれてありがとう」
瑠璃は孝太郎が運転する車に手を振る。
しばらくすると姿が見えくなったので、病院へ向かう。
「おはようございます〜」
病院のドアを開けると
「あらぁ〜ごきげんよぉ〜」
聞き覚えがある甘ったるい声がする。
「え!?早乙女姫華…さん!?」
姫華は瑠璃が働いている病院の制服を着て、にこやかに受付に座っていた。
「お嬢様、そこはごきげんようではなく、おはようございますですよ」
「あ〜、野村(のむら)ぁ〜、そうでしたわねぇ〜気をつけますわぁ〜。って姫華のことぉ〜覚えていてくれて嬉しいですわぁ〜。今日からよろしくお願いしま〜す〜」
傍には野村と呼ばれた、あの時ブランケットと食事を持ってきてくれた女性と、苦い顔をした渡辺が立っていた。
「医院長これどういうことなんですか?」
「いや〜、昨日姫華ちゃんのお父さん直々に病院へやってきてさ〜、娘をどうか働かせてくれないだろうかって頭下げられちゃって」
「それで働かせることにしたんですか?」
「そうそう」
「姫華ぁ〜今、お金が無くてぇ〜ピンチなんですぅ〜」
「お金が無い?」
大富豪のお嬢様のはずだ。
そんなはずはないだろう。
「はいぃ〜魔琴様の写真集を100冊買いたいんですけどぉ〜、おか〜ぁ様が50冊分しかお金を出してくれないそうなのでぇ〜あとは自分で稼ぐしかないかなぁ〜ってぇ」
「お嬢様は源十郎様に甘やかされすぎです。京華(きょうか)様がお怒りになるのも無理はありませんわ」
「な、なるほど…」
しかし芸能活動や動画投稿の広告収入などがあるため、そんなことをしなくても大丈夫そうに思えたが
「あとはぁ〜こぉ〜たろ〜様の婚約者の仕事ってどんなものなのか体験してみたくってぇ〜」
「へぇ?」
「そぉしたらぁ〜こぉ〜たろ〜様が望む女性に近づけるかなぁ〜ってぇ」
お嬢様の思考はどうもよくわからない。
「なあそれって結局こぉ〜たろ〜様?と魔琴様?どっちが好きなんだよ」
渡辺がツッコミを入れる。
「う〜ん、こぉ〜たろ〜様はぁ〜婚約者としていいなぁ〜って思っててぇ〜、魔琴様は推しですわぁ〜」
(あ、意外としっかり考えてた)
「お嬢様ではまだまだ至らない点があると思いますので、サポートは私が」
野村は深々と頭を下げる。
「という訳だ。姫華ちゃんはまだ大学生だからパート、野村さんは正社員として雇うことにした。浅田、これでいつでも辞めていいからな」
渡辺は満足そうに微笑む。
「わ、わかりました。よろしくお願いします」
「こちらこそですわぁ〜」
「はいぃ〜渡辺クリニックですわぁ〜。え?えっとぉ〜お電話代わりますわねぇ〜。浅田様ぁ〜なんか電話相手の方が訳分からないこと言ってきてぇ〜」
と受話器をこちらに向けてくる。
「え!わかりました電話代ります。お待たせ致しました。渡辺クリニックです」
「おお、いつもの受付のねーちゃんだ。診察時間を変更したのだが…」
電話相手は80代ほどの男性だった。
確かにしゃがれ声に加えて、滑舌が悪く所々聞き取りにくい箇所がある。
が、そんなの瑠璃は慣れていた。
「かしこまりました。何時に変更致しましょうか?」
「それじゃあ火曜日の10時に」
「火曜日の10時ですね。空いていますので予約入れておきます」
「ああ、頼んだよ。それじゃあまた」
と電話が切れた。
「ふぅ…なんだこんなことか」
安心して受話器を置くと
「凄いですわぁ〜浅田様ぁ〜」
「わっ、ちょっ…」
姫華に抱きつかれる。
ふわりと、いい匂いがする。
「姫華じゃぁ〜絶対たいぉ〜できなかったのに、あんなにあっさりとこなしてしまうなんてぇ〜」
「それくらい普通ですって…」
「さすがはこぉ〜たろ〜様の婚約者ですわぁ〜、姫華ぁ〜かんどぉ〜しましたぁ〜」
「大袈裟ですって。あと今は仕事中なので離れてください」
「わかりましたぁ〜」
姫華は瑠璃から離れる。
「ふぅ…やっと仕事が出来る…」
「浅田さん、これ終わりました。確認お願いします」
野村が先程渡したレセプトを持ってきた。
「え、もうできたんですか?」
確かほんの数十分前に渡したばかりだった。
しかも、わからないところは聞いてくれてと言ったきり1度も聞きに来なかった。
「医療事務の資格を持っておりますので、これくらいは」
野村が淡々と告げる。
「ああ、そうだったんですね。確認します」
「浅田様ぁ〜、野村ぁ〜こちらのお客様がぁ〜」
「お嬢様、職場の先輩には様付けで呼ぶのではなくさんで呼ぶんですよ。どうかなさいましたか?」
野村が素早くフォローに入る。
「凄い…」
野村が書いたレセプトを見ると完璧に出来ていて、入力ミスや写し間違えなどもなかった。
「初めてでこんなにできるって有能すぎない?」
もしかしたら早乙女家で働く前は医療事務の仕事をしていたのかもしれない。
姫華の仕事のできなさは拭いきれないかと思ったが、野村がこんなにも優秀なのでなんとかなった。
そして昼休みになった。
「あーなんか疲れたー」
瑠璃は机に突っ伏す。
結局姫華は持ち前の人懐っこさと、美貌を駆使して病院の患者たちをメロメロにしていた。
少しでもミスすると野村が完璧にフォローし、姫華が申し訳なさそうに謝ると「いいんだよ、まだ若いんだし」と全員から笑顔で許されていた。
「あーあ、私も美人に生まれたかったなー。世の中不公平だ」
と、スマホが鳴る。
確認してみると、孝太郎から夕飯が何がいいかという内容だった。
「うーん、どうしよう」
またなにか和風なものを考えるが一向に出てこない。
「うーん。あ、いっそ、中華とか?」
瑠璃は餃子が食べたいです。と返信した。
「お疲れ様でした〜」
「お疲れ様でしたぁ〜」
瑠璃は病院をあとにする。
孝太郎の車はもう着いており、瑠璃を見つけると手を振ってきた。
「お待たせ」
瑠璃は車に乗り込む。
「いや、今来たところだから気にしないでくれ。今日はどうだった?」
「そうそう、なんと早乙女姫華とその使用人が病院で働くことになってさ〜」
「それはすごいな…」
孝太郎は苦笑いをする。
「でしょ?もうビックリしたよ〜」
「そうしたらいつでも仕事辞めれるな」
「う、うん。そうだね。医院長も言ってたよ」
「そうか」
「はは、来週には辞めようかなーなんて」
「いいんじゃないか」
「うん…」
「もしかしてまだ迷ってるのか?」
「いやそんなことはないよ。ただ考え深いなーって」
新卒からずっと勤めていた職場だ。
それを寿退社するだなんて思ってもいなかった。
「人生何があるかわからないね」
「本当だな」
孝太郎の運転していた車が駐車場に停る。
車から降りると
「お帰りなさいませ」
高橋が出迎える。
「ただいま帰りました〜」
「ただいま。高橋さん」
「本日は中華料理ですよ〜」
「わぁ〜ありがとうございます。食べるのが楽しみです」
「それじゃあ行こうか瑠璃」
「うん」
孝太郎が瑠璃の腰に手を回す。