「私の為に、死んでくれませんか?」 ~君が私にキスしない理由~
でも、なにか失礼なことをしてしまったのか、その優しい瞳にすぐ不満の色が浮かんできた。彼は明らかに「私は今不機嫌だ」という表情で、私の言葉使いを指摘した。



「二人だけの時は名前で呼ぶように言ったはず」

「あ…いや、でも会社で社長と呼ぶのに慣れてて」

「言い訳はいらない。二人の時は名前で呼ぶ、そういう約束だろう?」


仕事とプライベートでは全く違う一面を見せる人だけど、こういうとき厳しい「社長」の姿が出てくるのが面白い。私は軽く咳払いをして、ゆっくりと彼の名前を呼んだ。


「分かりました、…黄泉(よみ)さん。これからは注意しますから、機嫌直してください」


「呼び捨てでいいのにな…」とぶつぶつ文句を言いながらも、黄泉さんは私の手を握った。そして私が見ていたものに気づき、川の奥へ向かうクルーズに視線をおいた。

水面に広がる夕焼けに飲み込まれるように、クルーズがオレンジ色の霧の中へ消えて行く。私が黙っていると、黄泉さんの方から声をかけてくれた。


「会社で利映の姿が見当たらないから、きっとここだと思った」

「ここで見る夕日がとても素敵で、好きです。それに…もしかしたら、今日の船に私のこと知っている人が乗っているかもーと想像すると、とてもワクワクするんです」

「そうか」


黄泉さんは再び川の向こうへ視線を戻し、私はその横顔を見ていた。

彼も私と同じく黒いスーツに黒いネクタイをしていて、多少地味な印象になるかもしれないけど…黄泉さんの細くて長い手足や整った顔が、その地味な服さえ神秘的な雰囲気に変えてしまうのだった。

私は握られた手に少し力を入れ、黄泉さんを軽く引っ張った。


「あの…実は、社長…いや、黄泉さんを待ってました」

「私を?」

「そうです。その、今日、一緒に…食事でもどうかな、と思って」


そう、今日彼がこっちに寄ることはもう知っていた。だから先に来て、わざと目立つようにウロウロしていた。今まではずっと誘われてばっかりだったので、今日こそは!とずっと思っていた。私の突然の誘いに驚いた黄泉さんは、意味深な顔でニコッと笑った。


「利映から誘ってくるなんて、珍しいね」

「た、たまにはいいかと…」

「そうか。誘ってるってことは…今夜は君の家に泊まってもいい、ってことかな?」


言葉の意味に気づいた私は恥ずかしさで耳が真っ赤になる。すぐ答えられず視線を下ろす私を急かすかのように、黄泉さんが軽く耳に口づけする。

ちゅ、とする音が背中の神経を刺激するように流れる。私はますます顔を真っ赤にして、小さい声で返事した。


「…はい、いいです」







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