「私の為に、死んでくれませんか?」 ~君が私にキスしない理由~
この世界で目を開け、混乱に陥ったあの日。あの日と同じく、私は遠くからレーテーの川を見守っていた。
ターミナルから出たクルーズ船はその大きな体でゆっくり滑り出し、徐々に速度を上げ水の上を進む。あの船には少年も乗っていて、霧の向こうにたどり着く頃にはもう今までの記憶がすべてなくなってしまっているだろう。短かった人生の悔しさも、お母さんへの思いも、何もかもすべて。
川の方から吹いてくる風を感じながら私は目を閉じた。そしてさっき少年から聞いた言葉をもう一回振り返る。いや、正確にはー少年の口から聞いた、「あの人」の言葉を、何度も思い返していた。
ー「自分のことでもないのに、いつだって人のために涙を流す。愚かなやつだけど、だからこそ…放っておけない。今も、昔も。愚かであることを知りながらも、結局同じ場所に戻ってしまうんだ」
あの言葉の意味は一体何なのだろうか。もしかしたらあの人は自分の過去のことを、知っているのではないだろうか。そういう疑問が次々と浮かんでくる。やはり、はっきりした返事をもう一回もらうしかない。私はそう決心して、目を開けた。タイミングよく、霧の中へ進入したクルーズの姿が完全に消えていくのが映る。人々の最期を飾るその姿は、とても虚しく…それでも、美しいと思った。
両手を合わせあの船の冥福を祈ったあと、私は自分が来た方向を振り返った。涼しい風が背中を押してくれているように感じる。次の目的地へ進む私の足には、もう何の迷いもなかった。
藤田さんに聞き、彼が今生前の世界にいること知った。場所はどうやら例の高尾山らしい。又あの場所に行くのは気が進まないが…私は気持ちを切り替え、山の入り口へ立った。今の私には、あの人に会わなくてはいけない理由があった。
普通の人が通る道を避け、険しい山道を進む。今はまだ太陽が空にいて、あの夜ほど足元が悪くはなかった。それでも、硬いパンプスでこんなところを歩くのは辛い。私は痛む足を何度も止め、その度に自分のことや、この世界のこと、あの世のことを考えた。そして、すべての思考の真ん中には、やはり「彼」がいた。
彼のことはまだ良く分からない。一回抱き合っただけでは全然足りないし、おそらくこれから何回寝たって、あの男の心を覗くことはできないだろう。見た目から危険な匂いを感じるから、なるべく関わらないほうがいい。細胞に刻まれている本能が強く警告しているのを感じながらも、私は自分の心を制御できずにいた。
「あ…」
ふと顔を上げ、目に入った風景に息を吸うのを忘れる。どこまでも広がる空と触れ合うそこには、波のように揺れるススキがあった。程よい風の動きに合わせ体を動かすその姿は、まるで太陽と共に踊っているようにも見える。この風景をずっと見ていると、私もススキになって風に身を任せたい、そんなことを思ってしまうのだった。
青い空、優しい太陽、肌にふれる風。すべてが揃ったこの瞬間に、私と同じことを考えていたのだろうか。視線の先に、「あの人」が立っていた。
ターミナルから出たクルーズ船はその大きな体でゆっくり滑り出し、徐々に速度を上げ水の上を進む。あの船には少年も乗っていて、霧の向こうにたどり着く頃にはもう今までの記憶がすべてなくなってしまっているだろう。短かった人生の悔しさも、お母さんへの思いも、何もかもすべて。
川の方から吹いてくる風を感じながら私は目を閉じた。そしてさっき少年から聞いた言葉をもう一回振り返る。いや、正確にはー少年の口から聞いた、「あの人」の言葉を、何度も思い返していた。
ー「自分のことでもないのに、いつだって人のために涙を流す。愚かなやつだけど、だからこそ…放っておけない。今も、昔も。愚かであることを知りながらも、結局同じ場所に戻ってしまうんだ」
あの言葉の意味は一体何なのだろうか。もしかしたらあの人は自分の過去のことを、知っているのではないだろうか。そういう疑問が次々と浮かんでくる。やはり、はっきりした返事をもう一回もらうしかない。私はそう決心して、目を開けた。タイミングよく、霧の中へ進入したクルーズの姿が完全に消えていくのが映る。人々の最期を飾るその姿は、とても虚しく…それでも、美しいと思った。
両手を合わせあの船の冥福を祈ったあと、私は自分が来た方向を振り返った。涼しい風が背中を押してくれているように感じる。次の目的地へ進む私の足には、もう何の迷いもなかった。
藤田さんに聞き、彼が今生前の世界にいること知った。場所はどうやら例の高尾山らしい。又あの場所に行くのは気が進まないが…私は気持ちを切り替え、山の入り口へ立った。今の私には、あの人に会わなくてはいけない理由があった。
普通の人が通る道を避け、険しい山道を進む。今はまだ太陽が空にいて、あの夜ほど足元が悪くはなかった。それでも、硬いパンプスでこんなところを歩くのは辛い。私は痛む足を何度も止め、その度に自分のことや、この世界のこと、あの世のことを考えた。そして、すべての思考の真ん中には、やはり「彼」がいた。
彼のことはまだ良く分からない。一回抱き合っただけでは全然足りないし、おそらくこれから何回寝たって、あの男の心を覗くことはできないだろう。見た目から危険な匂いを感じるから、なるべく関わらないほうがいい。細胞に刻まれている本能が強く警告しているのを感じながらも、私は自分の心を制御できずにいた。
「あ…」
ふと顔を上げ、目に入った風景に息を吸うのを忘れる。どこまでも広がる空と触れ合うそこには、波のように揺れるススキがあった。程よい風の動きに合わせ体を動かすその姿は、まるで太陽と共に踊っているようにも見える。この風景をずっと見ていると、私もススキになって風に身を任せたい、そんなことを思ってしまうのだった。
青い空、優しい太陽、肌にふれる風。すべてが揃ったこの瞬間に、私と同じことを考えていたのだろうか。視線の先に、「あの人」が立っていた。