まどかな氷姫(上)~元妻は、愛する元夫からの愛を拒絶したい~
「………白峰 珠緒」
「!」
私の声を拾った彼が、はっと息を呑んでこちらを見る。
(本当は、名前すら教えない方がいいんでしょうけれど……)
名乗ってしまったことに若干の後悔を抱き、俯きながら唇を小さく噛む。
――それは、寂しすぎる。
接点をなくして、彼を突き放すことができたとしても。
名前すらも隠すことは、私には、無理だった。
貴方の人生に、私の姿は無くてもいい。
貴方の隣を歩くのが、私じゃなくてもいい。
でも。
「私の名前」
それくらいは、貴方の記憶の片隅に残しておいてもらいたい。
ほかは、全部、捨てるから。
――諦めるから。
「………たまお」
「っ」
呼ばれた名に、呼吸を止める。
目頭が熱い。
視界がぼやける。
唇が震える。
なんで。
なんで。なんで。
(そんなに愛しそうに、私の名前を呼ぶの)
覚えていないくせに。
暴言を吐いたくせに。
睨みつけたくせに。
お腹の底に力を入れて、彼を見上げた。
「質問には答えました。授業に遅れてしまうので、手を離してください」
「あ、……ごめ……」
私の手首を掴んでいたことをようやく思い出した様子で、彼は慌てて手を離した。
今度こそ、逃げるようにその場を後にする。
(まどか)
歩みがだんだんと早くなり、終いには駆け足になった。
人の流れを避けて廊下を疾走しながら、私の意識はずっと、手首に残った熱へと向いていた。
皮膚をすり抜け、骨にまで沁みる毒か何かが塗られたかのように、じんじんとする手首。
(まどか)
特別教室の前にたどり着いたところで、私は蹲った。
指先で手首に触れると、冷たい肌の一か所だけが、未だに熱を宿していた。
(ずるい人)
今からこんなんじゃ、私はこの学校にいる間、何回取り乱せばいいのだろう。
「………………まどか」
先ほどの、何気ない彼の言葉の一部が、耳に残っていた。