まどかな氷姫(上)~元妻は、愛する元夫からの愛を拒絶したい~
『俺なんかの名前じゃなくて』
腰を屈めたまま、小さく拳を握る。
(ずっとずっと昔の、あなたの口癖)
「……あなたは、……また……」
今世では関わらない。あなたと私の、「生きながらえる」という幸せのために。
そう心に誓って生きてきた。
けれど。
「だめ。……そんなだと、また」
昔の彼の姿が脳裏に過ぎる。
出会ったばかりの頃の彼は、歪で、澱んでいて、世界の不幸のすべてを背負っていた。
目は闇色に沈んで。
口元はぴくりとも動かず。
時折唇から落ちる言葉は彼自身を咎め、責め苛む刃ばかりだった。
ふらふらと力なく、奈落へ歩いて行こうとする彼には、何の未練もないように見えた。
それが私には怖かった。
こんな人間が存在するのかと。
どんな生き方をしてくれば、こうなるのだろうと。
人間に対する恐怖が沸き上がった。
でも。
『僕の不幸が、誰かの傷を癒すのなら。……僕は永遠に不幸で構わない』
月光を帯びて輝く、白雪の降る夜。
足元が真白く染まった人気のない川べりで。
ぽつりとそう零した貴方の顔が、それまでのどんな時よりも安らかで、穏やかだったから。
ぼんやりとしたまま、白い頬に透明で綺麗な雫を、静かに伝わせたから。
全部を捨てた、全部を諦めたその声が、私の胸を打ったから。
――強欲な私は、彼を幸せにしてみせると心に誓ったのだ。
「他の何を捨てても、諦めても。あなたの幸せだけは、昔も今も、絶対に諦めないわよ、私」
そのためならば、手段など選ばない。
嫌われてでも。鬱陶しがられても。
(押してダメなら引いてみろ)
でも、それすら彼を幸福にできないとしたら?
「上等だわ。一周回って、今度は押しまくるのみよ」
(待ってなさい。まどか!あなたの元妻の執念深さを見せてあげるわ)
こぶしを握り、凶悪な笑みを浮かべて、私は教室の前で一人、高笑いをした。
授業は当然始まっていて、私はその後もちろん、通りがかった先生に叱られた。
「くしゅんっ!……くしっ!……くしゅっ!」
「んぁ~?近衛、風邪かぁ?」
「…っ。いや、ちがう…と、思うんですけど」
「ま、そっか、回数的に風邪は野暮だったな!」
同じ頃、寒気を感じたまどかが、教室で可愛らしいくしゃみを三回して先生に揶揄われたことを、私は知る由もない。