まどかな氷姫(上)~元妻は、愛する元夫からの愛を拒絶したい~
川で汲んだ水に満ちた桶を両手で持ちながら、私は家路を急いだ。
先ほど彼の様子を見たら、今朝方よりは熱も引いたようで安心した。
(小さな風邪も、命とりになりかねないから…)
病とは無縁だった自分も、閉鎖的だった里を出て、初めて普通の人々の暮らしを見た。
飢餓で倒れる人。
病で亡くなる人。
自ら生を絶つ人。
他者からの暴力で命を失う人。
私に用意されていたものとは全く違う。
外の世界には、私の知らない「死」が沢山あったのだ。
(……どんな「死」からも、まどかは私が守って見せる)
決意を新たにして、たどり着いた家の戸を開こうとすると。
手を触れる前に、戸が一人でにガラリと開いた。
『!?』
驚いて立ち尽くしていれば、目の前には、
『珠緒さん!』
風邪で寝込んでいたはずの愛しい夫が立っていた。
彼はそのまま、私を抱きすくめた。
桶の水が危なっかしく揺れたが、まどかは気にせず私を掻き抱く。
『ま、まどか、せっかく汲んできた水が零れちゃう』
『………いなくなってしまったのかと…』
『え?』
耳元で聞こえた小さな呟きに聞き返すと、まどかが顔を上げた。
『………弱い僕に愛想が尽きて、出て行ってしまったのではと、思ったんです』
『……………』
私は黙って桶を足元に置くと、まどかの顔の前で右手を掲げる。
そして。
『いっ!』
『ばか!』
思いっきり額を指で弾いた。
ビシッと軽快な音が戸口で響く。
涙目のまどかが怯えた様子でこちらを見つめてくるが、私は眉を吊り上げたまま言った。
『あなたを置いてどこか行くわけないでしょうが!ただの水汲みよ!』
『…珠緒さん』
(何よなによ)
見た目にも、先ほど触れた体温からも、彼の風邪が落ち着いたことを感じられたけれど、私はまどかに背中を向けた。
安心感と同時に、悔しさが胸に押し寄せ、目尻が熱くなった。
『あなたには私が、風邪を引いただけで夫を置いて、どっかへ行く女に見えるわけ!?』
『ちがっ…』
ささくれだった気持ちを抑え込むように、前掛けを両手で強く握りしめる。
少し離れたくらいで彼を不安にさせてしまう自分が情けなくて。
自分が思っていたほどには信頼されていないのかと悲しくなって。
ぽたぽたと涙がこぼれて足元に染みを作った。