まどかな氷姫(上)~元妻は、愛する元夫からの愛を拒絶したい~


『僕が臆病なだけなんです。…珠緒さんはそんな人じゃないって、分かっているのに』


そこで言葉が途切れ、彼が深く息を吸った気配がしてから、


『………他人(ひと)は皆、僕の元から去っていく』

『っ』


間近で聞こえた震える声が、鼓膜を揺らした。


『……………交わした言葉も、表情も、時間さえ。まるで最初からなかったように。誰も僕を顧みることはない』

『まどか…』


それは、あまりにも、悲しい告白。

彼がこれまで生きて、歩んできた、十余年。

助け、忘れ去られ、救い、見捨てられる、その繰り返しの日々。


――彼が臆病になるのは、当然じゃないか。


『まどか、私……』


これまでの言葉を謝罪しようと口を開けば、彼が漏らした言葉に声が詰まった。


『全部、夢かと、思ったんです』


切なげに揺れる声は、確かに震えていた。


『目が覚めて、天井が目に入って、一瞬どこにいるか分からなかった。でも、少ししてあなたと住んでいる家だと思い出しました。安心して、辺りを見渡したけれど、あなたの姿はどこにもなかった』

『私、水を汲みに…』

『……そうだろうなと、僕も思いました。帰ってくるまで待っていようと。……でも』


彼の声に影が落ちる。あまりに久しい、いつかに聞いた、暗い声。


『暗い家の中、一人きりでいると、これまでの全部が、本当は自分の抱いた幻想だったのではないかと思えてきた。あなたと逢えたのは夢で、本当の僕は今も暗闇の中で膝を抱えて、父を待っているんです』

『……』


【父】。それはまどかと契った私にとって、義父であり、この世で一番憎い人だ。


『まどか、あなたはちゃんと私と出会って、今、ここに、一緒にいるのよ』

『………珠緒さん』


気休め程度に肩に乗った頭をそっと撫でれば、彼は顔を首筋に埋めた。

私の存在を確かめるように。


『えぇ、そうですよね。……分かっては、いるんです。……でも』


縋るように、繋ぎ止めるように、私へ回す腕に力を籠めるまどか。


『だめなんです。暗闇で一人になると、どうしても不安になる。……僕は黒くて汚いから。闇に紛れて溶けてしまうように、自分という存在がよく分からなくなるんです』

『あなたはまどか。私の夫のまどかよ。私にとって、たった一人の、この世で一番大事な人』

『……珠緒さん』


暗い部屋の中、彼はずっとそんなことを考えて私を待っていたのだろうか。

それは、目が覚めながらに見る悪夢以外の何物でもない。


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