美しき禁断の果実
筋肉質な胸板が私の背中にあたる。
ひゅっと無意識のうちに喉が鳴って、ばくばくと心臓が動いているのが分かった。

「……すまなかった」
雪五朗の誠実そうな声が頭上から降ってくる。

ぎゅっと彼の腕に力が入る。
私は動揺して固まっていた。

そっと私の表情を覗き込みながら、彼は言った。

「散歩に行かないか? 旅館の裏手に綺麗な花畑があるんだ。……君に見せたい」

真摯な漆黒の瞳に魅入られて、気が付けば頷いていた。

私の同意を確認すると、雪五朗はぱっと腕を離した。
先ほどまで感じていた彼の体温が遠くに逃げて、少しだけ寂しさを覚えたのは秘密だ。

しゅんとしてしまう気持ちを誤魔化そうとする私の目の前に、すっと差し伸べられたのは雪五朗の手のひらだった。

「……え?」

思わず戸惑いの声が出てしまったのも無理はないと思う。
顔を上げると、恥ずかしさからか頬を搔きながら雪五朗は私が手を取るのを待っていた。

きゅうと心臓が鳴った。
その音に名前を付ける前に、私は彼の手を取った。

「エスコートには、その、慣れてないのだが……」

「構いません。私を案内していってくれるのでしょう?」

うふふ、と笑うと視線を逸らされる。
実のところ、この男はかなり純情なのかもしれない。

初心な男のことを疎ましく思わないのは、私としては稀有なことであった。
が、そのことに思い至ることなく、私たちは外に出たのだった。

旅館の裏手には、雪五朗の言う通り花畑を模した小さな庭園があった。

庭園は紫陽花に囲まれていた。
紫色の花弁に朝露の残りが煌めいてる。

庭園内には、桔梗、撫子、サルビアなど季節の花が区域ごとに分けられ見事に咲き誇っていた。
奇しくも上品さや清楚さを感じさせる植物ばかりであった。

敷地の中心部分には一本の林檎の樹があり、緑色をした幼果がぽつりぽつりと実り始めている。

初めて訪れた場所であるはずなのに、どこか既視感を覚えた。
首を傾げながら、私は独り言ちる。

「かなり人工的に造られた花畑なのね。てっきり自然に出来た花畑なのかと……」
「親父がこの旅館を買い取ったあと、俺が庭園を造らせた」

だから見せたかったの?
そう問いかけるのはどこか気恥ずかしくて、ついて出た言葉は当たり障りのないものであった。

「……花が好きなの?」
「意外か?」

「だって似合わないわ」
「俺も自分が花を好きになる日が来るなんて思いもしなかった」

そう述べた雪五朗の漆黒の瞳は林檎の樹に注がれていた。
それは息を呑むほど優しく愛情に満ちた眼差しだった。

私は目を見開いて、すべてを理解した。
きっと、彼の記憶の中には既に誰かがいるのだ。
彼が花を好きになった理由を作った誰かが。

見えない相手に私の心はざわめいた。
林檎の樹の、葉擦れの音が耳に痛い。

私は永遠に彼の心を手に入れられないのだと思い知る。

私に見せちゃってよかったの?
皮肉をぶつける勇気もなかった。

口から零れたのは鋭く冷たい声だった。

「つまらないわ。戻りましょう」

つんと可愛げのない態度をとって、私は踵を返した。
だが、一向に雪五朗の足音は聞こえてこない。
そのことが私をどうしようもなく苛立たせる。

近づいたと思ったらすぐにまた離れていく。
こうなるのなら、抱きしめたりしないで欲しかった。

「……ま、まってくれ」

情けない彼の声が聞こえ、私は足を止めた。
今すぐここから立ち去ることも出来たのに、そうはしなかった。

彼が私を引き留めている事実に少しだけ高揚していたのだ。
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