帰り道、きみの近くに誰かいる



私は自分の部屋へ向かおうとした。

空気は冷たく、体が寒い。誰もいない家の中は暖かみはなかった。


早く部屋を暖めてゆっくり休もう。

今日は色々なことがあった。

絵本の楽しさ、正さんと話した会話、桑田さん達の表情が頭に強く残っていた。




廊下を歩き、2階へと続く階段の向かいに部屋がある。父が使っていた書斎だ。

その部屋は父がいなくなって以来、扉が締め切ったままである。


母が時々掃除をしに入っているのを見たことあるが、基本的には誰も入らない。


父がまだ住んでいる時は私も部屋に入ることはなかった。小さい頃に時々遊びに入っていた時もあったが、何も面白味がない、父の趣味部屋であった。


そんな薄い記憶しかない部屋だ。


父がいなくなって一度も入ったことがない部屋だった。なんとなく近寄れない場所だった。勝手に部屋の中を見たとしても、自分の興味のある物が出てくることはない。


だけど、いなくなった父の事を思うと、思い出ばかりが溢れている。


その日はその部屋に惹きつけられるものがあった。部屋に入って中が見たいという気持ちになれた。

私はゆっくりとドアを開ける。


鍵はかかっていなかった。少し力を入れないと開かないくらい、部屋の中の空気は重く感じた。

部屋の中は相変わらず、昔の記憶とは変わっていなかった。


最初に目に入ったのは棚の上に置かれた、父が長年使用していたレコードプレイヤー。埃が被っている。そして部屋の壁一面には本棚が設けられていて見渡せば本に囲まれている。


父は本が好きだった。

中心にはアンティークな机と椅子が置かれていて、読み途中だった本が何冊か開かれていた。

多少、母が整理整頓したり掃除してるとはいえ、父が使っていたそのままの状態で置かれていた。

書斎にはいろいろな本が並べられている。

父が昔から読み耽っている漫画が几帳面に巻数順に並べられている。


小説や教育本も厚みがあるものばかりで小さい頃の私にとっては興味のないものばかりであった。記憶が薄いはずだ。



机の上に置かれていた本を何冊か軽く流し見る。ふと、読み途中であるのか、栞が挟んである本を手に取った。


その栞は覚えがあった。

昔、私が小学生の時に手づくりをした栞だった。背景の薄い青色の和紙に、白の桜が映えている。授業で作ったものを父にプレゼントした。


読書家の父が必ず喜んでくれるものだと思った。

予想以上に父は喜んでくれた。それから使っていたのかはあまり見てなかったが本に挟まれた栞を見て、目の奥が熱くなった。



何気なく栞が挟まれた本を手に取った。タイトルは《手話》《初心者》《技能検定》などの文字が並べられてあった。

よく見ると、机に置かれた本は手話に関連するものだ。

他に教育本も置かれていたが、内容は教育における障害児に関した本だった。


不思議に思った。


なぜ手話なのだろう。父は手話について勉強をしている。机に置かれているあたり、父がいなくなるまでこの部屋で熱心に勉強しているのがわかった。


だけど何故?学校で手話を必要とすることがあるのだろうか。手話を要する生徒がいたとしたら。様々な憶測が生まれた。



そのとき、玄関が開く音が聞こえた。母だ。


いつもより仕事から帰ってくるのが随分と早い。慌てて手に待っていた本を置いて部屋から出た。


そのまま玄関で動く人影のほうを見ずに、2階は続く階段へと登っていく。


階段を登る途中、「莉子?帰ってるの?」と母の声がした。

聞こえないフリをする。母が後から追いかけることも、声をかけることもなかった。

自分達に必要な大事な会話は、特にない。


部屋に入ると大きく息を吐いた。何に緊張しているのか分からないが、母の前だと息が詰まる、呼吸の仕方が分からなくなる。


例えば目を合わせた時、彼女はどんな反応をするだろう。目を逸らすのか、それともあの日のように冷たい目で私を見るのか。

母が暖かい反応をするとは到底思えなかった。



お父さん、あなたが家にいなくなってから気づいた。
あなたがいたからこそ、西野家があった。
家族があった。


1人が欠けてしまった場合、それは何て呼ぶのだろう。

私と母だけでも家族といえるのだろうか。考える程、虚しくなる。



だから父は今でもどこかで生きてる。そう思い込んでいた。

いつか、あなたは帰る。死んではいない。

どこかで今日も生徒の前に立って、先生をしているのだ。


だからまだ、私と母はこの家にいる事ができる。帰りを待っているのだから。


例え会話がなくても時が止まっているだけ。また動き出す事ができる。


だからお父さん、早く帰ってきて。


そう願った。部屋で1人きりで願った。
いつのまにか外も暗くなって部屋は暗闇に包まれていた。


電気もつけずに、下で響いて聴こえてくる生活音をただ静かに聞いていた。





※ ※ ※



下の階から音が聞こえなくなった。

母は自分の部屋に入ったのだろうか。ゆっくり足音を立てずに階段を降りてリビングの様子を見る。そこには誰もいなかった。


深呼吸をして玄関のほうに向かう。母が自分の部屋に入ったら、誰にも見られずに行う習慣があった。



それは夜道に出る練習だった。


玄関を開けると冷たい空気を感じた。真っ暗の中、玄関に立つとセンサーが反応して玄関前の電灯が着く。

ゆっくりと歩いて家の門まで辿り着き、そこから道へと出ようとした。誰も人気のない住宅街。

静寂な空気が更に私自身を怖がらせる。緊張の息を吸って吐き、それを何回か続けた時、身体全体に寒気がした。


呼吸の取り方が下手になっていく。


駄目だ、胸が苦しい。


声が思わず出るほどの呼吸が始まったら過呼吸の合図だ。後退りをして、慌てて家の中へ逃げ込んだ。

玄関を閉めて、何度か吸って吐いてを繰り返して息を整えると、自分自身を完全に落ち着かせるため大きく深呼吸をする。


ーーまた失敗した。こんなことをいつも繰り返している。

誰でも出来る簡単なこと、息をすること。

人間として当たり前の行為を、夜道では出来なくなる。

それが悲しくて、悔しくて、情けなかった。



そしてこの練習は母には見られたくなかった。
きっとこの不審な行動を見て、母はどう思うだろう。


訳が分からないと思うだろう。自分でも意味のない行動をしてると思ってる。


だけど解決方法は分からなかった。

どうしても自分が夜道を歩けるようになる方法は見つけることが出来なかった。


そうして今日も成長の変化が無いことに落胆していた。


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