帰り道、きみの近くに誰かいる
「なぜ兄貴がこんな事件を起こしたのか納得ができない。なぜ俺と母親がこんな目に合わないといけなかったのか。知りたいんだ」
神谷は続けて言った。
「あの日の事件のことは、どうしても分からないことがあるんだ」
木の丸椅子に座っていた神谷は立ち上がり、私と向き合う形をとった。
「何を知りたいって言うの…?私は本当に、何も分からない」
何も分からないのだ。あの日以来、母とも話してない。知ろうと思っても、知る権利なんか自分にはない。
たとえ、父が死んだのは暴力事件だったとしても、そうなってしまったのは自分のせいだと思っていたのだから。自分が父と喧嘩をしなければ、父は死ぬことはなかったのだから。
だけどそんな崩れそうな繊細な想いさえ、神谷には気づいてもらえない。知らなかった真実が露わになっていく状況に必死についていこうとするが、混乱ばかりだった。
「あの日、兄貴は親と喧嘩して家を出て行った。兄貴はおそらく腹が立ってむしゃくしゃしていたと思う。そこであの事件現場の路上を歩いていた時に兄貴に声をかけてきたのが君の父親だった。その時、兄貴と君の父親とあと1人、別の生徒がいたんだ」
「別の生徒…それは誰?」
「それが分からないんだ。その生徒は君の父親が教諭をしていた中学校の生徒だったらしい。その中学生は誰なのか。そいつは目の当たりしていた事件の内容を恐らくすべて知っている。だからそれが誰なのか知りたいんだ」
「私は何も聞いてないから分からない。私に聞かなくても自分の母親に聞けばいいじゃない。なぜ、私について調べて、わざわざ近づいたの」
「俺の母親は病んでしまった。それが君に近づいたきっかけだ」
神谷は自嘲気味に笑って言った。その笑みは疲れているように見えた。
「おそらく俺の母は事件のすべてを知ってるよ。ずっと俺の母親は取調べが続いていたから。だからきっと病んでしまったんだ。当時、俺をなるべく傷つけないように事件について一切触れないようにさせていた。俺はそれ以上の話を聞くことができなかった。そして母親はあの日を忘れようとしていた。でも俺は知りたいんだ。知らないと納得できないんだ。だから母が精神的な病気を患ってから、俺は事件について調べようとした。被害者の家族から聞き出すのが早いと思って、俺は君を探りあて、近づいたんだ」
事件をすべて知るために、神谷は一人で調べて私を特定し、近づいた。
「俺はあの日から学校に行くのが怖くなった、なんの意味もなくいじめられて、自分は関係ないのにある日突然、犯罪者の弟になって。いじめられていたトラウマで学校に行けなくなった気持ち、分かるか?だから知りたい。あんなバカ兄貴でもなぜ人を殺すことになったのか、どんな状況だったのか知りたいんだ。知らないと、俺はすべてに納得できない」
彼は今まで溜めていた苦しさを吐き出すように次々と言葉を発する。神谷はあの事件以降、いじめられたことをきっかけに学校に行かなくなった。
高校に入学しても毎日通うことができないほど精神的に病んでいた。私が事件によって夜道を歩けなくなったトラウマを抱えたことと、同じように思えた。
そして母の精神的な病をきっかけに、神谷は真実をすべて知ろうとした。
だけど私は逆に、真実から逃げようとしていた。
過去と向き合うとする気持ちと、過去を忘れようとする気持ち。
どちらが合理的に、痛みを乗り越えるができるのだろう。
「何度も言うけど、私は答えられない。私もあの日のことは分からないの」
「君の母親が知ってるはずだ」
突然、母親について引き出されて戸惑った。
私の母親は事件について知っているはず。だけど彼女から聞くことが出来ないと思った。きっと母親は自分のことを恨んでいる。
父と私が喧嘩をしなければこんなことにはならなかった。母に事件のことを聞こうとしても、そのことを直接言われそうで怖かった。
「母親に聞きなよ。被害者の家族である君の母親が知っているはずだから。あの日のすべてを教えてくれよ。じゃないと、俺は君に接触した意味がない。教えてくれ、すべてを忘れるためにすべてを知りたい」
すべてを知ることが出来たら、何もかも忘れることが本当に出来るのだろうか。
神谷は右ポケットに片手を突っ込み、何かを取り出そうとした。カチカチ、と高い音が届きそれが何なのか、実物を見ないとすぐには気づかなかった。
カッターだ。
文房具の店ならどこにでも買えることができそうな道具。すぐに手に入ってしまう凶器。右手に持っているカッターは陽気な日照りによって輝いて見えた。
そのカッターの刃先をゆっくりと私の方に向ける。
「これは脅しだ」
その手は震えていたけど気は確かだ。
「君にしていた今までの嫌がらせは最終警告。俺は真実を知れるなら、どんなことだってする」
しっかりと私を見ている。その手は必死に武器を掴んでいた。
「全てを知りたいんだ。全てを知って、早く忘れたいんだ」
私は何も言い返すことができなかった。そのカッターで私の教科書も傷つけたのだろうか。
傷だらけの教科書を思い出して、ふと思った。
もし傷の入った教科書が、神谷の心だったら。私の心だったら。
もう元通りに修復はできないのだろうか。
そのカッターで神谷は自分自身を守ろとしている。本気の目をしている。だから私は言い返すことができない。下手なことは言わない方が良い。彼はどんな行動に出るか分からない、と思った。
もはや、まともな判断は出来ていない。神谷の理性では処理できないところまで、彼の心の闇はゆっくりと蝕んでいた。