帰り道、きみの近くに誰かいる


「私の父は、今いません。亡くなりました」

初めて言葉にした。長い長い夢から現実に戻ったような気がした。父は死んでない。帰ってこなかっただけ。ただ今は家にいないだけ。そう思い込んでいた。自分にそう言い聞かせていた。

先輩は驚くことも戸惑いを見せることもなく、私を見ていた。優しく見守るように。崩れそうな私を支えるように。


「中学一年生の時、父は事件に巻き込まれました。出かけていた私のことを迎えに行く途中でした。私のせいなんです」


私が父の忠告を聞かずに出かけてしまったから。何か我慢していたものが溢れるように表情を崩した。そして一気に涙が溢れた。


先輩はそのとき、そっと片手を私の背中に回し、ぽんぽんと控えめに叩いた。
ゆっくりとしたリズムで届く振動は私にとって心地いいものだった。


そして小さい頃のことを思い出す。よくこんなふうに訳もなく泣きじゃくっていた時、お父さんも背中を叩いてくれてた。何も言わずに、ただ黙ったまま静かに、大丈夫だよと語りかけるように。その時の頃を思い出して、安心する。


「ごめん」と声が上から降りてきた。さっきまで背中に当たってた手がゆっくりと下りる。


「ごめん、思わず」

先輩はまた同じように謝って、背中から離した手をそのまま自分の首筋に持っていった。戸惑いの表情で。

触れたことに謝っているのか。改めて誠実な人だと思う。

「いや、いいんです。むしろ落ち着きます」

そのまま触れていてほしい。そう思った。

「…じゃあ」

私の希望通りにまたゆっくりと、私の背中に片手を回し、ぽんぽんと当て始める。ぎこちないその手の感覚に、また安心し始めた。



「ありがとう、話してくれて」

先輩は礼を言った。こちらこそ、感謝したかった。誰かにこんなふうに弱音を吐いたのはあの事件以来、初めてで。これだけでも少し前向きになれた気がした。

自分は、お父さんが亡くなったこと、心の中ではもう分かってたんだ。知ってたんだ。受け入れたくて苦しんでいたんだ。だけど逃げていた。


そして、ここから先は、今日初めて知った事実。


「父は殺されたんです。加害者は当時高校生でした」

私は大きな深呼吸をして、続けて言う。

「今日、その加害者の弟を名乗る人が私に話しかけてきました。その人は、最近私の後をつけていた不審者でした」


先輩はそこで目を見開いた。さっきまでとは話が違った雰囲気だった。


「最近、莉子ちゃんを追ってた…?それは本当なのか?」

「間違いないです。話しかけられた時、背格好ですぐ分かりました。それに本人も言ってました、私に接触しようと機会を待っていたらしいです」


神谷が私にしていた学校での嫌がらせについては、先輩には伝えなかった。


「なぜ、今更莉子ちゃんに近づいたんだ…?」


「彼は偶然、同じ高校の一年生でした。自分の母親が病んだことをきっかけに改めて事件のことを独自に調べようとして私に近寄ってきました。事件の真相を知りたい、と私に情報を求めてきたけど…私は何も知らない。事件のことは何も知らないんです。今まで避けてきて、何も話を聞いてない。だけど、これが機会なのかもしれないと思えてきました。あの事件を知るために、事が動いたのかもしれないです」



今まで現実から逃げ続けていた。きっと、真実を知らないといけない時期が来たんだ。


「その男は大丈夫なの?何かもし、莉子ちゃんに危害を加えるようなことがあったら」


父のことから事件の加害者の弟のこと、すべてを一気に話してしまった為、先輩は混乱している様子だった。だけど1番に、神谷との接触について気にかけてくれた。


「大丈夫です。その男の人も、…私と同じなんです。きっと、相当苦しんでいるんです」


今日の彼は、あの事件に苦しめられて必死になっている姿だった。カッターのことまでは先輩に言わなかった。自分の弱さを盾にして真実から逃げてきたツケが回ってきたのだ。だから。


「私、母から話を聞こうと思います。あの事件以来、話すことさえ出来なかった母と向き合いたいと思います」


母はきっと事件のことをすべて知っている。母がもう事件のことは話す必要はないと言い切っても、事件について詳しく聞くことは出来なくても、母と向き合う。父のことを話す。それだけでも充分だ。


自信はないけど、今なら出来そうな気がした。
だって、自分の過去を先輩に話す事が出来たのだから。相手が彼だから出来たのかもしれないが。

「でも莉子ちゃん、無理をしないで」

先輩は心配してくれた。

「もし、何かあったら言って。無理だと思ったことは頑張らなくていい。こうしたい、って思えることだけすればいい。長い時間をかけて向き合えばいいことだ」

こくん、小さく私は頷いた。

「絶対、危ない事だけはしたらダメだ。その加害者の弟との間でもし何かあったら必ず言って。絶対俺が助けるから」

先輩の目には強い力があった。
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