帰り道、きみの近くに誰かいる
突然、もう1人の誰かに腕を掴まれて思いっきり引っ張られた。その振動で神谷の掴んでいた手は離れ、神谷は少しバランスを崩して体が傾いた。
私の掴んできた手の主を見ようと顔を見上げた。
その人物は、清宮先輩だった。
目を見開いて、その顔を見た瞬間、驚きの後に安堵感が生まれる。
相当追い込まれていたのか、私は先輩の顔を見た瞬間に涙が溢れた。
何も喋っていないのに、先輩の表情から『もう大丈夫』と言われたようだった。頼ってもいいんだ、と読み取れた。
先輩は私の腕を優しく掴み直し、歩き出した。片方の手で私の靴を掴むと、地面に置いてくれた。
「誰だよ…誰なんだよ…」
先輩の突然の行動に、神谷は驚きを隠せない様子だった。
靴を履いた私の腕をまだ掴んだままの先輩が、神谷の方を一瞥する。
その目はいつもの優しい先輩ではなかった。
「…嫌がってるじゃん。泣かせたら駄目だろ?もう、連れて行くから」
先輩に言われた神谷は顔を赤くした。だけど何も言い返せないのか口を噤む。
先輩は私に「行こう」と言うと、その一言を合図に私を引っ張って走り始めた。
先輩は駆け足で走り、私もその速度についていく。
後ろを振り返ると、神谷はこっちを見て立ち尽くしていた。
遠く離れてあまり神谷の表情が見えない。私は前へ向き直して走った。
変わりゆく空の色と景色。すれ違う人の群れ。
最寄り駅までの道を走る空間は、私と先輩の2人きりの世界だった。
先輩はきっと、私が早く帰らなければならないことを頭に入れて、私のために必死に一緒に走ってくれている。
時々、振り返りながら「大丈夫?」と声をかけてくれる。
腕を掴まれている先輩の手に熱を帯びていた。
暗くなっていく世界の中を、私たちは前だけを見て必死に走った。
間に合って。
お願い。
もう暗くならないで。
だけど、違う。
ずっと、こうしていたい。
一緒にこのまま、明るい場所で
こうして腕を引っ張られて
走って行きたい。
誰もいない、夜が来ない世界で。
この気持ちは先輩に気づかれないように、心の中で、そう強く願った。
※ ※ ※
最寄りの駅に着いた時には17時を過ぎていた。
私と先輩は人が混み合う駅の中で立ち尽くしていた。
電車の時間が表示されている電光掲示板を2人で見上げる。
これから電車に乗ったとしても20分はかかる。地元の駅に着くころにはもう外は真っ暗になるだろう。すでに外は暗くなり始めていた。
「どうしようか、もう暗くなるね。電車以外の帰り方があるかな?バスは?」
「バスでも帰れません。だけどバス停から家までが遠回りになるんです」
そうか、と先輩は困った様子だった。
また先輩に迷惑かけてしまった、と自己嫌悪に陥る。
その時に私の携帯が鳴った。誰かからのメッセージで中身を見ると母からだった。
『帰りは大丈夫?迎えに行こうか?』
今日は母が仕事休みの日だった。いつも帰ってくる時間に私が帰ってこなくて、外は暗くなっているから心配してくれたのだろう。
夜道が歩けないことを告白してから、母は常に帰りのことを心配してくれるようになった。
「先輩、母から連絡がきました。車で迎えに来てくれるって」
そう言うと、先輩は良かったと安心したように笑ってくれた。
私も安心して大きくため息をつく。
「情けないですね、こんなふうに先輩にも母にも頼ってしまって。弱い自分だなぁって思います」
携帯の画面を見ながら呟く私に、先輩は首を振った。
「頼れる人がいるなら、頼っていいんだよ。弱さを見せたっていいんだよ。誰かに弱音を吐くことは、自分が成長できるきっかけにもなるから」
そう言った先輩の言葉には力強さを感じた。
今までの私は自分の弱さを誰かに見せることを恥ずかしく感じていた。
なるべく強い自分を演じたくて、誰に対しても簡単には悩みを話すことができなかった。
だけど先輩に出会ってからは、そんな自分を変えないと思えるようになった。
「莉子ちゃんのお母さんが来るまで、俺も待つよ」
「え、でも…」
「危ないから、一人でここで待つのは」
そんな先輩の優しさに、素直に甘えるようになったのは、先輩に出会って自分の考えも変わったから。
母が迎えに来るまで、私たちは2人並んで駅前のロータリーで待っていた。
昨日、
『もう先輩とは一緒に帰れません』と一方的に突き放してしまったのに、ここまで世話になってしまったことに申し訳なさを感じる。
そして、昨日の母からの話を思い出していた。
あの事件に関わっていたのは、キヨミヤレン。
先輩だったということ。
先輩に直接、話を聞きたいつもりだった。
だけど、こうして先輩を目の前にすると何も言えなくなる。
事件を知ろうとすることさえも怖がっていたのに、それに先輩が関わっていたと言う事実が本当であれば、私はきっと混乱をするだろう。
沈黙の中、勇気を出して声に出した。
「先輩…私、先輩に聞きたいことがあるんです」
何も意識せず、口から簡単に言葉が出た。
「事件のことを母から聞きました」
その一言で私が何を言おうとしているのか、先輩はもう気づいている。何も返事をせず、先輩はこっちを見ている。だけど私は目を合わせることができずに目を伏せていた。
「先輩…あの事件に関わっていたんですね」
いつか明かされることだとは思っていた。
「私のことも事件のことも知っていて…なぜ私に近づいたんですか?」
返事が返ってこない。
そのとき、初めて先輩と目を合わせた。
先輩は…大きく目を見開いて、私を見ていた。
無表情の先輩からは何も気持ちを読み取れることができなかった。
だけど、確信した。
間違いない。
先輩は、事件に関わっていた清宮廉。
張本人だ。
「すべて、事件のことを教えてください」
あの日、事件が起きた日、先輩が見たものは何か。
覚悟はできていたはずなのに、恐怖を感じた。
私はどんな真実を知ることができるのだろう。
先輩と目を合わせている沈黙の中、携帯が鳴った。
母からだ。ロータリーに母の車が見えた。
私はその時初めて、先輩から目を逸らした。
聞いてしまった。
どうしよう。
もう後戻りができない。
怖い。
過去と向き合うのが、怖い。
「…母が来たので、もう行きます」
「…莉子ちゃん」
「色々迷惑かけました。ありがとうございました」
先輩に声をかけられたけど、私は先輩に背中を向けて走り出した。
一度も振り返ることもなく、走ってその場を去った。
逃げるように。
何もかも、忘れるように。
先輩に背を向けて走った。
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