オスの家政夫、拾いました。3. 料理のガキ編
その言葉に、心の中に眠っていた幼い自分がゆっくりと目を覚ます。ずっと一人でなにもかも耐えるべきだと、そう考えてきた幼い峯野彩響。この優しい言葉を、あの頃聞けたらどれだけ良かったんだろうか。だったら素直に甘えて、助けて欲しいと言えたのに。長年大人をやっている30歳の彩響は、もうそんな弱音を吐く方法すら忘れていた。相手が9つも年下なら、なおさらだ。


「なに言ってるの、私はもう30歳の大人だよ?一人で大丈夫に決まってる。まさか、私が一人では何もできないとか、そう思ってるわけじゃないでしょうね」


彩響はあえて大きい声で答えた。そう、こうしてなんでもないと言い聞かせると、胸の中の幼い自分も再び顔を下げる。なにもなかったかのように、またいつものように。

彩響の返事を聞いても、林渡くんはすぐ返事ができず、もじもじする。なんども彩響の顔色を窺いながら、すぐ「行く」と答えられず、視線を落とした。小さい声で「でも…やっぱり…」とぶつぶつ呟く彼の言葉を、彩響は上書きするように言った。


「こんないい機会を見逃さないで欲しいの。他の人は行きたくても行けない留学でしょう?私は大丈夫。だって、MR.Pinkに相談すれば別の人を派遣してくれると思うし。心配しなくても、あなたのおかげできちんと食事する大切さには気づいているから。昔のようにドーナツとコーヒーだけの生活はしません」

「でも、俺は…」

「頑張ってね、林渡くん。優秀なシェフになって、私を招待して。楽しみにしてるから」


途中で言葉を切られた林渡くんはそれ以上はなにも言わず、目の前に出された彩響の手をじっと見ていた。そして結局、長い溜息をつき、その手を撮った。


「…分かった。行く」

「うん。応援してる!」


部屋に戻った彩響はベッドの上に横になり、天井を見上げた。大したことをしたわけでもないのに、結構疲れているのを感じる。しばらくぼーっとしてた彩響は小さい声で呟いた。


「…これで良かったはず」


どこか胸の奥が空いたような気分になるけど、きっとこれでよかったはず。林渡くんの進路を邪魔する存在になりたくはないから。すべてはお互いのためだから。彩響は深呼吸を繰り返し、なんども自分にそう言い聞かせた。それでも、寂しい気分を完全に消すことはできず、結構時間が経つまでそのまま天井を見上げていた。


いざ行くと決心した林渡くんはその後着々と留学の準備を進め、少しずつここでの生活も整理し始めた。そして一回実家へ戻り、荷物を片付けた方がいいとのことで、来月の頭には家政夫の仕事も終えると話は収まった。

相変わらず会社の仕事で忙しい彩響は特に林渡くんとなにか特別なことをやることもなく、いつものように日常を過ごした。林渡くんが作るご飯を食べ、会社に行き、又戻ってくる、そんな日々。もう結構慣れてしまったこの生活がそろそろ終わってしまうと思うと、残念な気分にもなるけど…応援すると決めたから。そう自分に聞かせ、彩響はずっと何でもないふりをした。林渡くんもただ静かに、自分に与えられた仕事を黙々とするだけだった。


そして彼がこの家を出ていくその前日、とうとう「その日」がやってきた。とても丁寧に、時間をかけ計画を立て、切実な気持ちで準備してきた「その日」。それはー


「ソースかけた?」

「うん、かけた」

「ドリンクは?」

「麦茶。冷やしておいた」


キッチンに二人で立ち、てきぱき動きながら料理を確認する。家にあるお皿を全部出し、本日の「お客様」のための好物を乗せ、綺麗にデコレーションした。1週間前からこの日のためにメニューを選び抜き、スーパーとネットサイトで材料を揃え、朝4時から仕込みを始めた。優秀な先生のおかげで、食卓の上はとても美味しそうな料理がいっぱい並んだ。それを見ると、なにもかもうまくいくような、そんな根拠のない自信で胸がいっぱいになるのだった。彩響は時刻を確認し、林渡くんへ改めてお礼の気持ちを伝えた。


「そろそろ来ると思う」

「そうだね。今日色々美味しくできたから、きっとご機嫌になって彩響ちゃんの話を聞いてくれるよ」

「うん。だといいね」

「じゃ、俺もう出るから。なんかあったら電話して」

「大丈夫だよ。心配しないで」


林渡くんは拳をぐっと握りしめ、小さい声で「ファイト」と言った。彩響も同じく拳を握り、二人は熱い思いでグータッチを交わした。


そうやって林渡くんが玄関を出て約10分。チャイムの音を聞いた彩響は大きく深呼吸をし、玄関を開けた。そしてまるで試験で100点を貰った小学生のように、明るい声で相手を歓迎した。


「お母さん、いらっしゃー」

「もう、なんでわざわざ来なきゃいけないの?今日どれだけ電車が混んでたのか分かる?普段私の言うことは全く聞かないくせに、面倒くさい」


恥をかかせる母の鋭い声に、彩響の声は途中で切れてしまった。母がピリピリしているのはいつものことだけど、今日は更にその声が痛く感じる。それでも彩響は根強く笑顔を維持した。これくらい、今まで吐かれた暴言にくらべるとかわいいレベルだ。彩響は早速母をテーブルの方へ案内した。


「お母さん、まだご飯食べてないですよね?今日はお母さんに食べてほしくて色々作りました」

「え?これをあんたが作ったの?全部?」

「そう…です」


正確には林渡くんと二人で作ったけど、彩響は適当に誤魔化した。母は疑わしい目で娘をちらっと見て、テーブルの上の料理達を左から右へとスキャンした。それはいつも娘を責めるときの目とそっくりで、彩響は思わず緊張して固唾を飲んだ。母は呆れたように、ぼそっと言った。


「はっ、どうしたの、あんたが料理なんかして。明日は雨でも降るのかしら?あれだけ料理も家事もしないって言うから振られたくせに、今更どういう風の吹き回し?」

「なんども言いますけど、振ったのは私でー」

「ああ、もう良いよ。これ食べればいいの?」


母は椅子に座り、さっそく箸で料理を食べ始めた。母は普段海鮮が好きで、今日のメニューもすべて魚やエビなどを使って用意している。真っ先に鯛のあんかけを一口食べた母が満足そうにニコッと笑った。その笑みを見ると一旦安心できて、彩響は母に気づかれないよう小さく溜息をついた。次々と料理を食べる姿からすると、結構口にあうようにみえるけど…。母は最後まで味に関する感想は一言も言わなかった。不安な気持ちを抱いたまま、彩響は母が食べ終わるのを待った。

「ーで、話ってなに?」


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