世界が私を消していく
それから廊下に取り残された私は少しの間放心状態だった。
先ほどの英里奈の言葉や表情が、頭から離れない。
どこからが偽りだったのかと考えるだけで、楽しかった記憶を思い出すことすら抵抗が生まれてしまう。
——私、揉めている内容を広めてなんていない。
「……っ、なんで」
涙が出そうになり、下唇を噛み締める。
英里奈との関係の修復はできず、逆に悪化してしまった。もう私たちは元に戻れないかもしれない。
教室に戻りクラスメイトたちの賑やかな声を聞きながら、楽しかった頃の自分たちと重なってますます気分が沈んでいく。
教卓側の席におそるおそる視線を向ける。既に英里奈は席に座っていて、この場所からは背中しか見えない。
私が未羽に話したのが、噂が広がった原因だと言っていたことが気になる。未羽に英里奈と真衣が一条くんに関することで揉めたことは話していない。
スマホにメッセージを打ち込み、【英里奈がクラスで揉めてること、バレー部で広まってるって本当?】と聞いてみる。
するとすぐに既読になった。
【真衣ちゃんと英里奈が一条くんを好きで喧嘩したとか、協力するフリをして内緒で会ってたとか部内で流れてる! 紗弥が悩んでたことってこのことだったの?】
未羽の返信を見る限りだと、真衣とのことが広まってるのは間違いない。
だけど、どうして?
揉めた内容を詳しく知っているのは——私たち四人だけのはず。
返事をする前に、未羽からメッセージが届いた。
【特に遥が英里奈にブチ切れててヤバイ】
遥ちゃんが振られた話と、もしかして関係あるのだろうか。
【好きな人が被ってるからってこと?】
【少し前まで遥と英里奈よく一緒にいたから、ふたりの間でなんかあったっぽい。多分一条くん関連だと思うけど!】
部内での問題は、遥ちゃんと英里奈の関係がかなり影響しているみたいだ。でもどうして英里奈は、私が未羽にすべてを話したと思い込んでいるのだろう。
誤解を解きたいけれど、どうするべきなのかがわからない。
悩んでいると、背後からいきなり抱きつかれた。
「さーや! これ美味しかったから、お裾分け!」
真衣は私の机の上に茶色の長方形の箱を置くと、食べてみて!と声を弾ませながら勧めてくる。
その箱には、溶けたチョコレートがオレンジにとろりとかけられているイラストが描いてあった。人気商品のシリーズものらしく、バレンタインが近いため新作が出たらしい。
「ありがとう、一粒もらうね」
「どうぞ〜!」
箱に手を伸ばすと、抱きついていた真衣が離れた。
そして空いている目の前の席に座り、なにかを探るように上目遣いで見つめてくる。
「ね〜、紗弥。さっきどっか行ってたよね」
「あ、えっと」
トイレに行っていたと言おうか迷う。けれど、最近早く登校するようになった真衣は普段とは違う私の行動について指摘しているのだ。誤魔化しは通用しない気がする。
「なに話してたの?」
「え……」
真衣は私が英里奈と話をしていたことを気づいているの?
だけどそれを私の口から聞いてしまえば、英里奈とふたりで話した内容を伝えないと真衣は納得しないはずだ。
「私に話せないこと?」
英里奈にどう思われていたのかを知られたくないという感情以外にも、告げ口するように真衣に話したことを英里奈に知られたら、ますます関係が悪化してしまいそうで怖かった。
なるべく真衣を不快にしないように、頭の中で必死に言葉を選ぶ。
「今はちょっとひとりで考えたいことがあって」
この選択が成功なのか、失敗なのかわからない。僅かな反応にすら神経を尖らせて、様子をうかがいながら真衣を見つめる。
「ふーん」
私を探るように真衣が目を細めた。
数秒沈黙が続くだけで、呼吸すらも躊躇うほどの重たい空気が流れる。
「そっか、わかった」
真衣は意外にもあっさりと引き下がった。打ち明けなければ不満そうにされるかと思っていたので驚いた。
「話したくなったらいつでも言ってね!」
「……うん。ありがとう」
追及されなかったことに安堵して、真衣からもらった一粒のチョコレートを口に入れた。ほろ苦い味が口内に広がり、すぐにオレンジの爽やかなソースがとろけだす。
感想を言おうと真衣に視線を移すと、思い詰めたような表情でこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「私さー、中学のときに友達に嘘つかれて揉めたことがあったんだよね」
真衣が過去の話をするのは珍しい。最近の話は自分からすることが多いけれど、あまり昔の話はしたがらないのだ。
「私の前では好きって言ってたのに、他の子の前では私といると男子と話しやすいから仲良くしてるだけだって言っててさ」
結局利用されていただけなのだと真衣が寂しそうにこぼす。
だから英里奈の件も、以前のことと重なって過剰に反応してしまったそうだ。
「自分に都合のいいことしか見えてなくて、裏で悪く言ってるやつなんて信用できないじゃん? そういう人、本当嫌い」
まだ高校入学をして約一年。私はまだみんなについて知らないことだってたくさんある。もしもこのことを英里奈が先に知っていたら、なにか変わっていたのだろうか。
「それに、やられっぱなしで黙ってるのって嫌なんだよね」
英里奈に舌打ちをしたり、睨みつけている姿を思い出して、私は手のひらを握りしめる。
「……真衣は、英里奈と話し合う気はないの?」
「英里奈次第じゃない?」
真衣から声をかける気はない。そのことに安堵してしまい、自分の中に抱いた醜い感情に気づいてしまう。
真衣と英里奈が仲直りをしたら、英里奈に嫌われている私はどうなるんだろう。
そしたら私が言いふらしたと思っている英里奈は、そのことを真衣に話すかもしれない。
自分の居場所を失う可能性が頭に過り、血の気がひいていく。
「ねえ、紗弥」
真衣は私の机の上で頬杖をつきながら、にっこりと微笑む。
「私に絶対嘘つかないでね」
呼吸が、一瞬止まった。
——早く。早く答えないと。
私は内心かなり焦りながら、できるだけ落ち着いた声音で答えた。
「……約束する」
嘘をつかない。たったそれだけに思える約束。
けれど真衣の言葉は、鎖のように私の喉に絡みつき、そっと締め上げてくる。
「そのチョコ、美味しいでしょ?」
もしも約束を破ったと思われることがあれば、私は真衣に嫌われるだろう。そうならないように自分が気をつければいい。
わかっていても、約束はまるで呪いのように私の動きを鈍くさせる。
「うん、美味しいね」
真衣から目を逸らすことができないまま、芽生えはじめた恐怖を笑顔で隠す。
オレンジの風味は消えて、口の中には苦味だけが残っていた。