世界が私を消していく
曇りのち、凍雨
夜眠る前、学校に行くのが待ち遠しい。
そんな風に思うほど楽しいと感じるようになったのは、一週間前に席替えをしてからだ。
以前よりも十分以上早く学校に着いて、彼の到着を席に座りながら心待ちにしている。
浮かれすぎていると自覚はしているけれど、私にとっては新年早々運を使い果たしたと思うくらい幸運なことだった。
「おはよー、宮里」
目の前の椅子が床と擦れ合う音を立てる。
視線を上げると、眠たげな表情の時枝清春くんが立っていた。
「おはよう。時枝くん」
平静を装いながら笑みを向けたものの、心臓はばくばくとしていて頬に熱が集まってくる。
時枝くんはクラスの男子たちよりも大人びていて、あまり大きな声ではしゃいだりもしない。
とっつきにくいと言っている人もいるけれど、困っていると声をかけてくれるような優しいところがあって、話してみるとよく笑う人だ。
私が時枝くんと初めて会話をしたのは、四月の終わりに私が傘を忘れて帰れずにいたときだった。時枝くんがコンビニでわざわざ傘を買ってきてくれたのだ。
それ以来、私は気づけば彼のことを目で追うようになっていて、三学期になった今ではようやく趣味の話をする仲になれた。
「そうだ、宮里」
背中を向けていた時枝くんが振り返る。長めの前髪の隙間から見えた瞳が私を捕らえて、心臓がどきりと跳ねた。
「こないだおもしろいって言ってた映画、見たよ」
「えっ、どうだった?」
映画でなにかおすすめはあるかと聞かれて、好きなSF映画のタイトルを数日前にメッセージで送ったばかりだ。なので、こんなに早く見てくれるとは思わなかった。
「すげーよかった。ああいうの好き。また今度おすすめ教えて」
自分の好きなものを、時枝くんにも好きだと言ってもらえて頬が緩む。
次はなにをおすすめしよう。時枝くんは他にどんなのが好きなんだろう。
そんなことを考えていると、「あのさ」と硬い声で時枝くんがなにかを言いかける。
視線を上げた先で、目を伏せている時枝くんが躊躇いがちに口を開く。
「その映画の続編、夏にあるんだって」
「あ、そうそう。次は二年後の話らしいよ。楽しみだよね」
「……ふたりで観に行かない?」
聞き間違えかと思って、固まってしまう。
「いやその、俺の周りで前作観たことある人いないから。……宮里さえよかったら」
興味あるものが一緒だから誘ってくれているだけで、勘違いしてはいけない。
わかっているけれど、全力疾走でもしたかのように心臓が大きく脈打つ。
「い、行きたい!」
もっと違う言葉を返したかったのに、この一言が精一杯だった。
「やった」
時枝くんは目尻にしわを寄せて笑うと、頬にはえくぼができて無邪気な表情になった。映画が観に行けるから時枝くんは喜んでいるのに、私は別の意味で喜んでしまう。
「公開日近づいたら、連絡する」
まだ先の話だけれど、時枝くんとふたりで出かけるのなんて初めてだ。
ちらりと目線を向けると、普段とは違うあることに気づいた。ワックスで緩くセットされた時枝くんの黒髪は、いつもよりも前髪のあたりが少しだけ跳ねている。
「ん?」
私の視線に気づいたのか時枝くんが首を傾(かし)げる。
前髪を人差し指でさして、「寝癖」と言ってみた。
すると、時枝くんは目を見開いてから自分の前髪に触れる。そして歯を見せて照れくさそうに笑った。
「やべ、バレた? ワックスで誤魔化せるかなって思ったんだけど」
予想外の反応に心が鷲掴みにされた感覚になる。