世界が私を消していく
傘結び
——最悪だ。
校庭の土が雨でどろどろになっていくのを眺めながら、ため息を漏らした。
放課後の教室には俺ひとりしかいない。
天気が悪くなってきたので、早めに帰ろうと思っていた矢先に、地元が同じ先輩に捕まってしまって少し話し込んでしまった。
そして帰ろうと思ったときには、大粒の雨が音を立てて降っていたのだ。
せめて雨が弱まるまで待とうかと思ったけど、なかなかその気配がない。
鈴の音が聞こえて振り返ると、教室の後ろの出入り口の前に女子生徒が立っていた。
「傘、ないの?」
こちらの様子をうかがうような少し躊躇いがちの声で話しかけてくる。
肩にかかるくらいの長さの黒髪に、大きくて澄んだ目。
知っているような気もするけれど、誰なのかまではわからない。
ただ気になるのは丸い目は潤んでいて、今にも泣き出しそうなほど弱々しい。今まで話した覚えもないというのに、俺に怯えているみたいだ。
「あの……」
この階にいるということは、同じ学年なんだろう。
けれど、名前すらわからない。初めて会話をする相手とどう接するべきか分からず、できるだけ手短に会話を済ませたくて愛想笑いで返してしまった。
「忘れちゃって」
「傘、よかったら使って」
彼女は何故か安堵したように笑みを浮かべて、先ほどよりも明るい声になる。
「え、いやそんなことしたら自分のは?」
「私、傘ふたつあるの」
ほらっと、腕にかけたビニール傘を持ち上げて見せてきた。どうやら折り畳み傘とビニール傘を持っているらしい。
「でも……」
正直有難いという気持ちもあるけれど、よく知らない相手に借りていいものなのか少し悩む。
「それに返さなくていいよ」
「なんで? さすがにそれはダメだろ」
返さなくていいと言われる理由がわからず顔を顰めた。
腕にかけているビニール傘をよく見ると、少し歪で骨が折れているように見える。
壊れているから、いらないってことなのか?
彼女は眉を下げてほんの一瞬寂しそうにした後に、すぐに穏やかな表情で微笑んだ。
「だって明日にはきっと忘れちゃうから」
「忘れる?」
俺の問いには答えずに、彼女は歩み寄ってくると、折り畳み傘を俺の机の上に置く。
袋には桜のキーホルダーがついていて、それがちりんと鈴の音を慣らす。
「ならせめて、そっちの折れてるビニール傘でいいよ!」
貸してくれるのは、てっきりビニール傘の方だと思っていた。紺色の折り畳み傘の方らしい。
「これは、私の大事なものなんだ」
俺にはただの折れているビニール傘にしか見えない。けれど彼女は大事そうにしていて、壊れていない折り畳み傘の方を俺にあげると言ってくるのが不可解だった。
「だから、気にしないで」
これ以上食い下がるのは困らせてしまう気がしたので、俺は有り難く借りることにして頷く。
「ありがと」
濡れて帰らずに済むことに安堵しながらも、せめて名前を聞こうと思っていると、彼女は踵を返して歩いて行ってしまう。
「じゃあね、時枝くん」
「あ、ちょっと待って!」
呼び止めると、不思議そうにして振り返った。
彼女が動いたタイミングで、桜の形のブローチのようなものがコートの隙間から見えた。それは折り畳み傘についているキーホルダーとよく似ている。
「必ず返すから! 名前教えて!」
「……いいのに」
「お礼もちゃんとしたいから」
困ったように眉を下げて笑みを浮かべると、彼女はゆっくりと口を動かす。
「宮里」
それだけ言うと、そのまま教室を出ていってしまった。
……宮里。
その名前を聞いても、ピンとこなかった。
彼女は俺の名前を知っていたけれど、俺は彼女のことを知らない。
明日には忘れるってそこまで記憶力が悪いはずがない。一体どういう意味なんだと首を捻るけれど、全くわからない。
ひとまずは机の上に置かれた紺色の折り畳み傘のおかげで、濡れずに家に帰れる。
誰もいなくなった静かな廊下を歩きながら、今日のうちに傘を乾かして、宮里さんに明日返そうと決意した。