世界が私を消していく
昼休みになり、席を立ったときだった。
同じタイミングで後ろの席の女子が立ち上がったのがわかった。教室の外で食べるのか、手にはお弁当を持っていた。
——あれ?
一年近くこのクラスで過ごしているはずなのに、後ろの席に座っている女子の名前がわからない。
俺の視線を感じたのか、彼女がちらりとこちらを見てくる。
そしてすぐに目を逸らして、お弁当を抱えながら通り過ぎていく。
「え……」
彼女のブレザーのポケットに桜のブローチのようなものがついている。あれをおれはどこかで見たことがある気がした。
開いたままのカバンに視線を落とすと、借りた折り畳み傘が目に留まる。
桜の形がほとんど一緒だ。同じメーカーなのは間違いない。
『じゃあね、時枝くん』
そうだ。コートを着ていたので、はっきりとは見えなかったけど、折り畳み傘を貸してくれた女子もブレザーによく似ているものをつけていた。
「待って」
慌てて背中に呼びかけても、自分が呼ばれていることに気付いていないらしく、そのまま教室を出て行ってしまう。
呼び止めたいのに名前が出てこない。
あのとき、俺が名前を聞いたはず。……彼女はなんて答えてた?
考えてもすぐには出てこない。まだ遠くには行っていないはずだ。
俺は教室を出て、人の間を縫うように小走りで追いかける。
「なあ! 待って!」
後ろから声をかけても振り返ってはくれない。
いきなり腕を掴むことも気が引けたため、彼女の目の前に回り込む。
「え……?」
俺が目の前に立ったことによって、ようやく視界に入れてくれたようで目をまん丸くして呆然と立ち尽くしている。
「あのさ」
記憶をどんなに手繰り寄せても、放課後に話した相手の顔が思い出せない。それなのになんて話を切り出すべきなのかと迷う。
「あー……えーっと」
こんなに必死に追いかけたくせに人違いだったらどうする。たとえ本人だとしても返さなくていいって言ったのにと迷惑がられてしまうかもしれない。そんな余計なことまで考え出して、うまく言葉が出てこない。
けれど、彼女はじっと俺の言葉を待っているようだった。
「っ、昨日! 俺に傘貸してくれたよな?」
違うと言われるか、貸したと言われるか、そのどちらかだと思っていた。
けれど目の前の彼女は、瞳を揺らしている。
瞬きをすると、一筋の涙が頬に伝った。
「わ……の、こと……っ」
声を詰まらせながらなにかを伝えようとしているけれど、うまく聞き取れない。
その泣き顔を見た瞬間——苦しそうに涙を流している姿が脳裏に浮かんだ。
俺はこの人のことを〝知っている〟。それなのに煙に巻かれたように、今までどんな会話をしていたのか、どんな人だったのかが思い出せない。
一体いつ、彼女の泣き顔を見たんだ?
昨日の放課後ではない。別の日……でもそんな昔でもないはずだ。
『〝違う〟って言ったら、信じてくれるの?』
煙が薄れていく記憶の中で、涙を流しながら無理に笑っている彼女が映る。
遠ざかっていく背中を追いかけようとしたとき、誰かに止められた。
『紗弥って、嘘つきだから近づかない方がいいよ』
それを言ったのは、誰だった……?
俺は何故かその人物に苛立ち、言い返したはずだ。だけど何故怒りを覚えた理由も、なにを言ったのかも思い出せない。
紗弥って誰のことだ?
「時枝くん、私のこと……忘れてないの?」
微かに震えた声で、目の前にいる彼女に名前を呼ばれて、ずきりとこめかみ辺りに痛みが走る。
『おはよう。時枝くん』
後ろの席で笑いかけてくれる姿が頭に浮び、自然と口が開く。
「宮里……?」
どうして俺は、今まで忘れていたんだろう。
同じクラスで、後ろの席で、好きな人——宮里紗弥のことを。