世界が私を消していく
片時雨


世界から私だけが取り残されたみたいな、そんな寂しさを学校で感じていた。

でも同時に安堵も得られた。私を忘れてくれているおかげで、こんなにも平穏な日々が送れている。

——だけど、私の名前を彼が以前のように口にしてくれたとき、涙が溢れ出てきた。


「宮里、だよな?」

忘れてほしいと自分で願ったくせに、時枝くんが覚えていてくれたことが嬉しく感じるなんて我儘だ。


「なんでかわかんないけど……俺、宮里のこと」

気まずそうに言葉を噤んでしまった時枝くんに、私はブレザーの袖口で涙を拭ってから、言葉を続けるように口にする。


「〝忘れてた〟?」

困惑した様子の時枝くんが、申し訳なさそうに頷いた。

時枝くんが悪いわけではない。これは全て私の願いが叶った結果だったから。


「私の話、聞いてくれる?」

信じてくれるかはわからない。だけど、今ここではぐらかしたら、二度と話すチャンスはやってこない気がした。

学校でみんなが私を忘れた中、時枝くんだけが思い出してくれたこの一日を、私はこのまま終わらせたくない。

時枝くんは、緊張しているのか強張った顔になった。


「聞かせて」

私たちはそれぞれ昼食を持ち寄って、四階から屋上へと続く階段に集まった。一番上の段まで行くと、ふたりで並んで座る。

食べ物が喉に通るような気分ではなく、先に私は話を切り出した。


「さっきの話についてなんだけど、今時枝くんは私のことどこまで覚えてる?」

その質問に、時枝くんは少し考えるように腕を組んでから、口を開く。

「同じクラスで、一月の席替えで近くになってからよく話すようになったこととか」
「最近私と交わした言葉って記憶に残ってる?」
「うーん……最近っていうと、傘借りたときの会話は覚えてる」
「その前は?」
「席が近いからよく話してた記憶はあるけど……あ、寝癖の話とか、あとは好きなアーティストの話とか映画の話してたのは覚えてる」

それを聞いて、私は胸を撫で下ろした。

彼は覚えていない。私が忘れてほしいと願った原因である、裏垢の一件を。


「私に関する記憶が消えたのは、時枝くんだけじゃないの」
「それって、他のやつらも宮里のこと忘れてるってこと?」
「うん。学校の人たちから私に関する記憶が消えているんだ」

そして私は、毎日学校の人たちの私に関する記憶がリセットされること。

時枝くんのように思い出してくれた人は初めてだったことを話すと、時枝くんは黙り込んでしまった。


くしゃくしゃと髪を掻いてから、時枝くんがぽつりと問いかけてくる。


「……いつから?」

レインドームに願ったのがバレンタインデーの日で、透明現象が起こったのが十五日。そして今日は二月の二十二日だ。


「ちょうど一週間だよ」
「てことは、最近ってことか」

本気で信じてくれているのかはわからない。けれど否定をする気はないようだった。


「えっと、その私が言うのもなんだけど……信じてくれるの?」
「正直、そんなこと普通はありえないって思う。でも、俺が経験してるし……」

すんなりと受け入れることができる内容ではないものの、忘れるという経験をしたため、信じようとしてくれているみたいだ。

「俺、傘を借りたとき宮里のこと全く覚えていなかったんだ」
「……うん」
「今思い返しても説明がつかない。俺が宮里のこと忘れるなんて、ありえないことなのに」

その言葉が私を特別だと言っているように聞こえて、私は頬が熱くなる。

都合のいい意味に捉えてはいけない。席が近くて毎日話していたはずの私のことを忘れることがおかしいということだ。


「じゃあ、この一週間はみんなに忘れられて過ごしてたってことだろ」
「そう、だね」
「そんなの辛すぎるよな」

辛くない、と言えば嘘になる。だけど、一週間前に戻りたいのかと聞かれたら、私は戻りたいとは言えない。


「また明日になったら、俺は宮里のこと忘れんのかな」

その言葉に胸が軋む。
こうして話せるのは、きっと今日だけ。

翌朝になったら、また顔も名前もよくわからないクラスメイトになるはずだ。



「多分、忘れちゃうと思う」
「……忘れたくねぇな」

溢れ出てきそうな感情を抑えるように、私はきつく目を閉じた。

こんな気持ちはわがままだ。

学校の人たちに忘れられていることにほっとしているくせに、時枝くんには私を覚えていてほしいなんて。


「俺になにか手伝えることがあったら言って」
「え? でも」
「できるだけ覚えていられるように、メモするとかいろいろ試してみるから」

時枝くんの眼差しは真剣で、本気で私のことを心配してくれているのが伝わってくる。


「だから、あの折り畳み傘まだ貸しといて。あの傘があれば、俺はまた宮里のことを探し出せる気がする」

以前のような笑顔を向けてもらえて、目頭が熱くなった。
けれど、時枝くんの優しさは、今の私にとって直視するには眩しすぎる。心の中ににある黒く渦巻く感情を知られることが怖い。


「どうしてこんなことが起こったのかとか、心当たりある?」

私は声が震えてしまいそうで、俯きながら首を横に振った。


ごめんなさい、時枝くん。

心の中で、何度も謝りながら私は祈るように両手を握った。

私は時枝くんに、すべてを話せない。




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