世界が私を消していく
学校から少し進んだ先にあるふたまたに分かれた道で、時枝くんが足を止めた。
「右と左、どっちがいい?」
「え?」
右に行けば、いつも帰る方の道で駅がある。けれど左は行ったことがなかった。
「右なら駅の周辺でいろんな店に行こうかなって思ってる」
「……左は?」
「河原とかがあって、俺のお気に入り。でも今二月だし寒いか」
たしかにこの時期に外で過ごすのは寒い。けれど未知の世界みたいで興味があった。それにコートもマフラーもあるし、少しくらいなら平気だ。
「左に行きたい!」
私の答えに意外そうにすると、時枝くんは笑みを浮かべて頷いた。
「じゃ、今日は左ってことで」
次もあるような言葉に、少しだけくすぐったくなる。
そんな保証はないけれど、それでも時枝くんの優しさは嬉しかった。
いつまた時枝くんにも忘れられるかわからない。だから今を大事にしたい。
左の道を進んでいくと、半歩先を歩いていた時枝くんが歩調を合わせるようにして私の隣に立った。
「こんな状況になってる宮里は気を悪くするかもしれないけど、なにかを失敗するとさ、周りの人たちの記憶から俺の失敗消えてくれって思ったことがあるんだ」
「わかるよ。私もあった」
中学の頃、音楽の授業のテストで声が上擦っちゃって、うまくいかなかったときや、当てられた問題を外してしまったとき。数え出したらキリがないくらい。
「だから……みんなから私に関する記憶が消えて、悪いことばかりじゃなかったの」
「……うん」
時枝くんの眼差しは真っ直ぐに向けられている。驚く素振りがなかったので、もしかしたらなにかを察しているのかもしれない。
「消えてほしいものも、一緒に忘れてくれたから」
私は立ち止まり、時枝くんの後ろ姿を見つめる。
彼はなにも知らないから、こうして私の傍にいてくれるんだ。
自制するように俯いて、冷えた手をぎゅっと握りしめる。
——勘違いをしちゃダメだ。
「宮里」
時枝くんが私の意識を引っ張るように、優しい口調で名前を呼んだ。顔を上げると、いつのまにか時枝くんも足を止めて、振り返っている。
「忘れたくない景色を探しに行こう」
隣を歩く彼から、白い息が浮かんで消えていく。
「時枝くんにとって、忘れたくない景色ってどんなの?」
「んー、秋なら紅葉が道を作ってるのを見たこととか、冬なら積もった雪に夕日が降り注いでいて綺麗だったとか。そういうありふれているけど心に残るやつ」
もっと特別な景色かと思っていた。想像よりも身近で日常的な景色。
けれど、私はそういったものに最近は目を向けていなかった。
「スマホばっか見て歩いてると、景色って記憶に残りにくいなって思うんだ」
その言葉に、私はコートのポケットに入れているスマホを握りしめる。画像フォルダには、たくさんの思い出が詰まっていたはずだった。
けれど私のことが忘れられて、画像が消えてしまった今では、真衣たちと過ごした日々で見てきた景色がすぐには思い浮かばない。
「みんなどこへ行っても、スマホで写真撮りたがるじゃん。だけどさ、ちゃんと目に焼き付けるのも大事だよなーって」
「……私、今までSNSに載せたら反応いいかなってものを撮ることばかり意識して、スマホ越しの景色ばかり見てたかも」
自分が心を動かされたものを撮るのではなくて、見た相手がどう思うかばかりを考えていたと思う。
「俺の姉ちゃんもそんな感じだよ。花火をスマホで必死に撮ってる姉ちゃん見たとき、なんかもったいないなーって思ったんだよな」
行った場所や、珍しいもの、彩りが綺麗なもの。
それらを投稿していい反応があると嬉しくて、思いのほか反応がよくないと消すときもあった。私はいつのまにかそういうものに囚われていたのかもしれない。
「SNSって楽しいし、そこから共通の話題を見つけて仲良くなることもあったけど、でも……時々自分を消費してしまう気がしてたんだ」
フォローしている子の投稿や、誰がいいねを押してくれたとか、誰と誰が親しいとか。みんなそういうことを気にしていて、そして自分もそういうところを見られているのだと感じていた。
「そういう繋がりも時には大事だとは思うけど、俺は画面の中だけが全てじゃないと思う。疲れたなら一旦離れてもいいんじゃない」
「私も、今ならそう思える。多分少し前まで、丸一日SNSを見なかったら、周りの話題から置いていかれそうで怖かったんだ」
「え、毎日チェックしないと話についていけないってこと? あー……でもみんな結構な頻度で投稿してるもんな」
誰かから返事が来ないと落ち込んだり、逆に早く返さないといけないと思って焦ることもあった。
私はそういう日常の中で、少しずつ自分の心を削っていた気がする。
学校でもSNSでも周りの機嫌をうかがってばかりだった。私はずっとスマホやSNSに依存していたのかもしれない。
「今日はさ、スマホを気にしないで自分の心に残るものを探そう」
「自分の心に残るもの?」
「誰かに見てもらいたいじゃなくて、宮里自身が忘れたくないって思う景色。こういうのは退屈?」
「ううん。忘れたくない景色を探したい」
私はポケットの中でずっとスマホを握りしめていた手を離した。画面越しに世界を見るのではなくて、自分の目で見て、好きだと思った景色を心に刻みたい。
「こんなところがあったの知らなかったな」
辿り着いたのは陸上競技場を取り囲む大きな公園だった。
「宮里、焼き芋好き?」
「え? 好きだけど」
「じゃ、ここで待ってて」
突拍子もなくなにを言い出すのかと思っていると、時枝くんが走ってどこかへ行ってしまう。その先には石焼き芋と書かれている車があった。
ほんのりと甘くて香ばしい匂いが先ほどからしていると思ったら、正体は焼き芋だったらしい。
焼き芋を買ってきた時枝くんは、ひとつの包みを私に差し出してきた。
「こないだ傘を貸してくれたお礼」
それだけのことで貰ってしまっていいのかと躊躇う。すると時枝くんが「冷めるよ」と言って、包みを私の手の甲に軽くぶつけてきた。
「あの、ありがとう!」
焼き芋を受けとると手のひらから、熱が伝わってくる。
「俺の方こそ、あのときはありがとな。あ、そこ座って食べよっか」
近くのベンチに腰をかけると、思ったよりも時枝くんとの距離が近く感じて焼き芋の包みを持つ手の力をぎゅっと強めた。
あと数センチ右にずれたら肩が触れそう。
「外で食べる焼き芋ってうまいよなー。……あれ、食べないの? もしかして苦手だった?」
「う、ううん! いただきます!」
焼き芋をふたつに割ると、白い湯気が立ちのぼり、ふわりと甘い香りが漂う。
かじりつくとホクホクとした食感と控えめな甘みが口の中に広がる。紫色の薄い皮はほんのりと香ばしい。焼き芋の暖かさがじんわりと伝い、少し冷えた体に熱が巡ってきた。
「美味しい」
「たまにはいいな。こういうのも」
時枝くんの言っていた意味がわかった気がする。
身近で日常的な景色は、こういうものなのかもしれない。
焼き芋は特別甘いわけではないけれど、寒い冬に外で時枝くんと一緒に食べる焼き芋は美味しく感じて、きっといつか思い出したとき、この瞬間は大切な思い出のひとつになる。
私もこういう日常の幸せを覚えていたい。忘れたくない。
隣を見れば、焼き芋を食べている時枝くんの横顔。
たとえば、この記憶が誰かの願いによって消されてしまったら、と考えると急に不安が押し寄せてくる。その場合は忘れたことにすらわからないけれど、それでも思い出を強制的に消されるということに恐怖心を抱いた。
もしかしたら、私と少しでも関わっていたために、誰かの大事な記憶も丸ごと消えたなんてことも、起こっているのかもしれない。
そうだとしたら、私は大変なことをしてしまった。
私の身勝手な願いが、誰かの人生を大きく左右してしまった可能性だってある。
そう思うと自分のしてしまったことの重大さを感じて、恐怖が黒い影となって心を蝕んでいく。
けれど、全てが元どおりになったらあの日常が帰ってきてしまう。
嘘ばかりの投稿に、周囲から向けられる冷ややかな視線や憎悪。耳を塞ぎたくなるような私の陰口。友達にも信じてもらえなかった。
時枝くんだって、きっとすべて思い出したら、私があの投稿をした犯人だと思って、軽蔑するはずだ。
だけどこのままで本当にいいの……?