世界が私を消していく


「そういえば宮里に俺、傘あげたことあったよな」

思い出したように時枝くんが話し始めて、不安定になり始めた感情が引き上げられる。


「うん。四月のときに」

入学して三週間くらいが経った頃のことだった。あのとき未羽は部活があって帰りはひとりだった。

予報では夕方から雨が降る確率が高いと言っていたのに、朝は晴れていたのですっかり傘を忘れてしまったのだ。

少しくらい濡れても大丈夫だと思ったけれど、昇降口まで行ってみると案外降っている。

この中で帰ったら、びしょ濡れになることは間違いない。どんよりとした気持ちで立ち止まり、カバンで濡れるのを防ぐようにして走っていく生徒たちを見送る。


私もそうやって帰ろうか迷ったけれど、せっかくの新しい制服が濡れてしまう。


雨宿りをして様子を見ていると、隣で青い傘が開いた。

ふざけて騒いでいる男の子たちとは違って、彼は落ち着いていて、あまり笑う姿を見たことがない。近寄りがたくて話しかけにくい雰囲気を纏っている。

まずいと思ったときには、彼の視線がこちら向いていた。じっと見すぎてしまったみたいだ。


『傘、ないの?』

まさかそんな風に声をかけられると思わなくて、咄嗟に私は頷くことしかできない。


『……俺の傘入ってく?』
『えっ! いや、大丈夫! 気にしないで!』

同じクラスとはいえ、話したこともない人の傘に入れてもらうのは申し訳なくて勢いよく断ってしまった。


『そっか。すぐ止むといいな。じゃ、また明日』

それだけ言うと、彼は雨の中を進んでいく。
〝また明日〟という言葉に私は、目を瞬かせた。もしかして私のことを、同じクラスの女子だと認識していたのだろうか。

私のことをまだ覚えていない人だって多いはずなのに。

分厚い雲から滴る雨を眺めていると、水が弾くような音が聞こえてくる。

視界に入ったのは、見覚えのある青い傘。

なにか忘れ物だろうかと考えている私に、彼——時枝くんは真新しいビニール傘を差し出してきた。


『これ、よかったら使って』
『……もしかしてわざわざ買ってきてくれたの?』

傘がない私のためにビニール傘を買ってきてくれる親切な行動に吃驚していると、時枝くんはニッと歯を見せて笑う。


『雨いつ止むかわかんないしさ、なかなか帰れないんじゃないかなって気になって』
『……ありがとう。時枝くん』

ビニール傘を受け取ると、時枝くんは『じゃまた明日!』と言って、すぐに帰っていく。

その後ろ姿を見つめながら、私は彼がくれたビニール傘の柄をぎゅっと握り締めた。

これが私と時枝くんが初めて会話をした日で、そこから少しずつ彼に惹かれていったんだ。


「四月の話だから、時枝くんはそのときのこと忘れてるかと思ってた」
「宮里といると、少しずつ思い出すんだ」

その言葉にどくりと心臓が跳ねて、背筋が凍った。


「じゃあ、私の嫌なところも思い出しちゃうかもしれないね」

冗談まじりの口調で言ってみると、時枝くんは「想像つかない」と苦笑する。

「時枝くんが覚えていないだけで、私すっごく嫌なやつだったかもしれないよ」

クラスの中で、きっと私が一番時枝くんと親しい女子だった。
真衣たちは時枝くんを素っ気ないとかあまり話さないと言っていたけれど、少しずつ接する機会が増えていって、席が前後になってからは特に心を開いていてくれたように思えた。

だけど、もしもなりすましの件を時枝くんが思い出したら、私に裏の顔があると拒絶するはずだ。だってあのとき、きっと時枝くんは私がやったと思っていた。 


「それはないと思うけど」
「……どうして言い切れるの?」
「まだ抜け落ちてる記憶があるのかもしれないけど、それでも今ある記憶の中で俺は宮里のこと嫌なやつって思ったことない」

時枝くんが心配そうな表情で顔を覗き込んでくる。


「宮里はなににそんなに怯えてんの」
「それは、」

答えを言ってしまえば、打ち明けることになってしまう。

言葉が続かなくなって、私は口を閉ざした。


「なにもかもが合う人なんていないだろ。完全に同じ人なんていないし、合わない部分もどこかしらあると思う」

時枝くんの言葉に私は俯きながら、食べ終わった焼き芋の包み紙をくしゃりと握りしめる。

合わない部分。そこが見つかることによって、人間関係はいともたやすく崩れ落ちていく。特に学校という場所での関係は、細い糸で繋がっているようなもの。些細な言動が刃物になって、糸がぷつりと千切れてしまう。


「だけど俺は、それが少し見つかったくらいで宮里のこと嫌いにならない」

私を安心させるような優しい口調で言われて、視界が滲む。

「そもそも合わない部分がたくさんあったら、関わってないと思うし」
「そう、かな」
「俺の場合はそうだよ。だけど記憶を辿ってみても、俺から宮里によく声かけてたし。それって宮里のこと嫌だったらしてないから」

特に近くの席になってからは、時枝くんはいつも声をかけてくれていた。なりすまし事件が発生して、気まずくなってしまったけれど、他の人たちみたいに敵意をむけてくることはなかった。

引き止められたあのとき、時枝くんはどういう考えで私に聞いていたのだろう。

『あのアカウントのことだけど、宮里なの?』

もしも私が『違うよ』と打ち明けていたら、時枝くんは信じてくれたのかな。

時枝くんが隣で立ち上がったのがわかって、顔を上げる。


「俺は宮里のことを忘れたくないよ」

それは、切実に願ってくれているような声だった。

温かい涙が冷え切った頬に伝う。
信じてほしい。突き放さないでほしい。時枝くんの傍にいたい。

だけど言葉に出すことができなくて、時枝くんがポケットティッシュを差し出してくれた。


「ごめ……っ、すぐ泣き止むから」




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