世界が私を消していく
場所を移動しようと言われて、元来た入り口とは反対から公園を出る。
少し歩いて、石段を下っていくと河原にたどり着いた。
「家帰るときの通り道なんだけど、ここ昔から気に入ってんだ」
「……綺麗」
淡い青から茜色へと空が染まりはじめ、棚引く雲は琥珀色の影を作る。夕焼けを飲み込んだような水面は、眩しいほどの輝きを放っていた。
世界が夕日に支配されていくような風景に心を奪われる。
「たまに学校帰りに友達ときて、家帰る前に腹減ったからってここで買い食いしたり、夏は川で遊んだりしてたんだよなー」
この河原は時枝くんの思い出の場所みたいだ。私の知らない時枝くんの話が聞けて顔が綻ぶ。
「宮里は中学のとき、学校帰りとかはどこ行ってた?」
「私は放課後の教室で話したり、友達の家に行くことが多かったかな。あとは友達と分かれ道のところで話が盛り上がっちゃって、日が暮れるまで話すってこともあったよ」
分かれ道のところでおしゃべりをしていたのは、ほとんどが未羽だった。いくら話しても話し足りないくらい、外が真っ暗になるまで私たちはよく一緒にいた。
最後に未羽と一緒に帰ったときのことを思い出して、苦い気持ちになる。
あとのきは、未羽に英里奈と関わらない方がいいと言われて、ついムキになった。気まずいまま別れて、なりすましのことが起こってしまったので、あれ以来ちゃんと話せていない。
もう未羽の中に私の記憶は消えてしまった。
あの笑顔を向けられることも、名前を呼ばれることも、二度とないのかもしれない。
そう思うと鼻の奥が痛み、目に涙の膜が張る。
「あ、雨」
晴れているように見えた空は、私たちの後方に灰色の雲がかかっていた。
夕陽に照らされて光のような雨が降り注ぐ。
今頬に伝ったのは、私の涙なのか雨なのかわからない。けれど痛みを優しく流してくれているような気がして、空を見上げながら雨を浴びる。
ちりんと鈴の音が聞こえて隣を見ると、時枝くんが紺色の折り畳み傘をカバンから出していた。
「これ、使っていい?」
「うん。大丈夫だよ」
桜のキーホルダーがついた傘の袋を外すと、時枝くんが傘をさす。ふたりで入るためには仕方がないものの、傘を持っている時枝くんの腕と私の肩が触れている。
「結構降ってきたな」
傘の中だからか、声が普段よりも鮮明に聞こえる。
「そうだね。時枝くんが傘持っていてくれてよかった」
動揺を悟られないように平然を装いながら、濡れていた頬を手の甲で拭く。頬が熱い気がして、くすぐったい気持ちになる。
夕暮れのチャイムが町に鳴り響く。小学生の頃に、何度も繰り返し聞いた曲だ。これが鳴ったら家に帰るというのが、ほとんどの子たちの決まりだった。
私たちのこの時間も、もうすぐおしまい。一日が終わってしまう。
「天気雨なんてラッキーだな」
「……忘れたくない景色、見れたかも」
私の言葉に時枝くんの目元がきゅっと持ち上がり、八重歯をちらりと見せる。
いつもよりも無邪気さを感じる彼の笑顔に見惚れそうになり、慌てて視線を移動させた。
「宮里に、そう言ってもらえてよかった」
淡い青から茜色に移り変わっていく空。水面に降る光の雨。
今日この時間に河原へこなかったら、見ることができなかったはずだ。
次第に雨は止み、時枝くんが水滴をはらいながら傘を閉じる。折りたたんだ傘を私が袋にいれようとすると、強風が吹いた。
「ぅ、わっ」
身を震わせるような冷たい風が捻れるような音を立てて吹き抜けていく。
手から袋がすり抜けていってしまい、咄嗟に掴もうとしたけれど靡いた髪が視界を塞いで見失ってしまった。
風に煽られた桜のストラップについた鈴の音がどこからか聴こえてくる。けれどいくら探しても袋は見当たらなかった。
「もう日が暮れるから一旦帰ろう。俺家近いし、明日明るい時間に探してみる」
「ううん、大丈夫。見当たらないし、仕方ないよ」
時枝くんの手を煩わせたくはない。近いうちに自分で探しにくればいい。もしも見当たらなかったら、今後は代わりの袋に傘をしまえばいいのだ。
「見つけたら、連絡する」
ほとんど諦めている私に時枝くんは、見つかると確信しているような真っ直ぐな目を向けてくる。
時枝くんは、時々直視するのを躊躇うほど眩しい。彼なら本当に見つけてくれる気すらしてしまう。
「そろそろ帰ろう」
時枝くんが見せてくれた景色は、平穏でゆるやかな日常。だけどその景色が、私にとっては愛おしく感じた。
ひとりだったら、気づかなかったことばかりだ。
学校帰りに食べる焼き芋ってこんなに美味しいんだね。久しぶりに聞いた夕暮れのチャイムは、どこか切なくて懐かしさを感じた。
太陽が沈むときは燃えるように熱くて、夕空は瞬きをするたびに表情を変えていた。
この時間を、景色を、感情を、私はずっと心に残しておきたい。
忘れたくない。
お願い、時枝くん。私を、この日を忘れないで。