世界が私を消していく


時枝くんは呆然と立ち尽くしながら、白い息を漏らす。

おそらくよく知らない女子から、大事なつながりだと言われて困惑しているのだと思う。


「だから、せめてこれだけでも取り戻したくて……っ」

私は今までなにかに必死になることがなかった。
体育祭も音楽祭も、頑張ってまとめている子たちを一歩引いた場所で見ているだけ。

目立って裏で文句を言われるのも避けたい。あの子が頑張っているからほどほどにやれば、なにも言われないはず。

そうやって自分からなにかを手にしようとはせず、いつも誰かに合わせて身を委ねていた。


「いい子ぶってるとか言われたけど、全然そんなんじゃない。ただ本音を言うのが怖かっただけなの」

一度目を伏せてから再び私を見た時枝くんが真剣な面持ちになる。真っ直ぐな瞳の奥で、彼がなにを思っているのかはわからない。


「周りのこと嫌だって、面倒だなって思ったこと何度もあった」

私は、ずっと自分の心に嘘をついていたんだ。
押し込めて気づかないふりをしていた感情が、水が溢れるように零れはじめる。


「それでもグループにいると安心して、楽だったの」

英里奈を仲間外れにしたときだって大事なら声をあげるべきだったし、嫌なら離れるべきだった。

「一月になって時枝くんと席が近くになれたことが嬉しくて、学校に来るのが楽しいって思ってたの。でもそんな毎日が、真衣たちが険悪になってから居心地が悪くなって、一気に学校が憂鬱になった」

楽しかった日々が、英里奈の行動がきっかけで崩れてしまった。
心の中ではみんなに対して不満も抱えていた、

英里奈は真衣に聞かれたときに隠さずに本当のことを話せばよかったのに。私のことをいい子ぶっていると言っていたけれど、英里奈だって本音を隠していた。

真衣と英里奈の問題なのだから、由絵は真衣に加担するのをやめたらいいのに。
言えない本音が私の心に重たくのしかかっていった。


「英里奈と真衣たちに仲直りしてほしいって思ったのは事実だけど、正直巻き込まれるのは嫌だなって思ってた。だけど、今度は私が仲間外れになって、身に覚えのないことまで起こって……なんでこんなことにって苦しかった」

あんなことをしなければ気が済まないほど、なりすました人物が私を恨んでいたのか、それとも少しの悪意があそこまで膨張していったのか、真実はわからない。

だけどどんな理由があったとしても、なりすましをして私を追い込んだ顔の見えない相手が許せない。


「忘れられて気持ちが楽になったのは本当だったけど、幸せなんかじゃなかった」

繰り返し忘れられるたびに安堵感よりも、心が削られていく感覚がしていた。
未羽や時枝くん。好きな人たちから私の存在が消えて、大事な思い出も全てなかったことになってしまう。


「時枝くんに思い出してもらえたとき、嬉しかった。……でもずっと不安だったんだ」

彼の優しさに甘えて過ごす時間はとても穏やかで楽しかったけれど、このまま寄りかかっているだけではダメだってことは、わかっていた。

もう一度現実が戻ってくることは怖い。あの日常に戻ってしまえば、もう二度と時枝くんは笑いかけてくれないかもしれない。

堪えていた涙が頬を濡らしていく。



「もう時枝くんに忘れられたくない。だから……」

気持ちを整えるように深く息を吸ってから顔を上げる。


「私のことを信じてほしい」

黙ったまま私を見つめている時枝くんが、なにを感じているのかはわからない。
きっと今の時枝くんは、私の話についていけていないだろうし、困らせてしまっているかもしれない。

すると、時枝くんが力を緩めるように微笑む。


「宮里も俺のこと信じて」
「え……?」

思いもよらない彼の発言に、私は目を瞬かせる。
時枝くんは自分のカバンから、袋に入っていない紺色の折り畳み傘を取り出して、私に見せる。それは貸したままだった私の傘だ。


「帰りにカバン開いたとき、この傘が中に入っていて誰のだろうって思ってた。それに河原になにかを探しに行かないといけない気がしてて、一度通り過ぎたけど戻ってきたんだ」

昨日時枝くんがこの折り畳み傘の袋を探してくれると言っていた。私のことを忘れてしまっても、その約束の存在が薄らと残っていたみたいだ。

「そしたら宮里がいた。それでやっと思い出した」
「……私が周りに忘れられていることも、思い出したの?」
「今は全部覚えてる。周りから忘れられる前に、宮里になにがあったのかも」

この間の記憶が抜け落ちた状態とは違う。私が今まで隠したかった出来事も、彼は完全に思い出したらしい。


「ごめんなさい……っ、自分のことばかりで酷いこと言っちゃって」
「俺も自分の気持ち押し付けるようなこと言って、宮里の気持ちちゃんと考えてなかった。ごめんな」

時枝くんは悪くない。私が逃げてしまいたくて望んだことだ。

「私、時枝くんにあんなこと言った後、後悔していっそのこと全部忘れてほしいって思ったの。……そんなこと願ったから、きっとまた私のこと忘れちゃったんだよ」

人の記憶を勝手に消してしまうなんて最低なことだ。時枝くんは忘れたくないと言ってくれていたのに。


「でも、またこうして宮里のこと思い出せたから」

私の裏アカウントの話を思い出しても、時枝くんは優しいままだ。

関わりたくないと避けたり、冷たい視線を向けてくることはなく、忘れていたときと変わらずに私に接してくれている。

「逃げたくなることも、これからたくさんあると思う。だけど今度こそ、俺は宮里の味方だから」
「私のこと、信じてくれるの?」

ニッと歯を見せて、時枝くんが「当然じゃん」と笑いかけてくれる。


「あんなに必死に話してくれた宮里の話が嘘だと思わないし、それに元々ちょっと思うところがあって」
「思うところ……?」
「裏アカウントに拓馬のことが書いてあったけど、宮里って関わりほとんどなかっただろ。だから違うやつが犯人なんじゃないかって思って、それであの日宮里に確認しようとしたんだ」


――『あのアカウントのことだけど、宮里なの?』
――『〝違う〟って言ったら、信じてくれるの?』

あの裏アカウントは本当に私のなのかと聞いたのは、私が犯人だと思って聞いてきたわけではなかったようだ。

がくりと足の力が抜けて、その場に座り込んでしまう。


「宮里が泣いてたとき、誤解させるような聞き方してごめん」

時枝くんは、目線を合わせるようにしゃがんで顔を覗き込んでくる。

「なりすましの件、嘘だって俺も声を上げる」
「……私も、今度はちゃんと声をあげる。諦めて口を閉ざしたら、私がやったことになっちゃう。そんなの嫌だ」

それでも信じてもらえなくて、後ろ指をさされたって、私は自分の心を殺したくない。


「だけど、宮里。無理だけはしないで」

〝大丈夫〟だと言い聞かせて、麻痺した心に優しく時枝くんの言葉が響く。
味方がいてくれる。そう思うと心強くなるけれど、不安定な心は弱さと強さを行き来して、押し潰されそうになるときもこれから何度もあるはずだ。


「時枝くん」

けれど、もう全てをなかったことにするのはやめたい。


「私のことを思い出してくれてありがとう」

目尻に溜まった涙が一筋流れていく。

レインドームを思い浮かべながら、あの日望んだ雨が止むことを願った。





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