世界が私を消していく
その声にほっと胸を撫で下ろし、顔を上げる。
すると視界に飛び込んできたのは、私服姿の時枝くんだった。
ゆったりとしたネイビーのトップスの中にギンガムチェックのシャツを着ていて、襟や裾、軽く捲っている袖から柄が見える。
爽やかで、けれどラフさもあって、時枝くんの雰囲気に似合っている。
心臓の音が全身に伝わるほど大きく脈を打ち、咄嗟に俯く。
「具合悪い?」
心配そうに声をかけられて、慌てて首を横に振った。
「先生じゃなかったから安心して……」
誤魔化すように説明をする。実際先生だと思って隠れたけれど、時枝くんの私服姿がかっこよくて直視できなくなり、俯いたなんて恥ずかしくて言えない。
そっと顔を上げると、時枝くんが納得したように目を細めて笑う。
「鉢合わせしても、忘れ物取りに来たって言えば大丈夫だって」
「そっか、そうだよね」
ほんのり熱を感じる頬が赤くなっていないことを願いながら、私は立ち上がる。
「それよりよくここにいるってわかったね」
「早くついたから校舎の方に行ったら、靴が一足あって。もしかして宮里かなって思ってさ」
時枝くんは、先日まで座っていた自分の席の前に立って机の傷に手を伸ばす。
「次学校に来るときは、もう新しいクラスなんだよな」
「……うん。少し変な感じ」
また同じクラスになる人もいるだろうけれど、ほとんどの人が変わるはずだ。
人が変わればクラスの雰囲気も異なる。
二年生の私はどんな一年間を過ごすんだろう。
「宮里はもう平気なの? なんか言ってくるやつとかいない?」
「そういう人はいないよ。ただ……腫れ物を扱う感じかな。遠巻きで見てくる人とか、話しかけられてもちょっと相手がぎこちないというか」
誰も私の話を聞いてはくれず、敵意を向けられていたあの数日間。けれど誤解だったと知って、自分のしたことに罪悪感を持っている人も少なからずいるみたいだ。
「それに私にどう接していいのか分かんないって人もいるんだと思う」
一部では私が濡れ衣を着せられたことや、なりすましをされるほど誰かに恨まれているのかと哀れんでいる人もいるみたいだけど、直接あの話題に触れてくる人はいない。
「小坂が誤解だったって説明して、戸惑うやつらは少なからずいるよな」
「……うん、でもあの状況で私が説明しても苦し紛れの嘘にしか思われなかっただろうから、真衣が誤解だって広めてくれてよかった」
「犯人が誰なのか、予想がついているやつは多いけど、でもやっぱ宮里や小坂の口から聞きたがってるやつも結構いるよ。けど言うつもりないんだよな?」
真衣にも甘いと言われてたことを思い出しながら、私は苦笑する。
「英里奈にされたことは今でも許せないけど、私は自分のために広めないことにしたの」
私が心穏やかに過ごしたかったという思いもあるし、後味が悪いのが嫌だというのもある。けれど、一番の理由は別だ。
「私のそういういい子ぶってるところが嫌みたいだから、これが私なりの仕返し」
時枝くんはぽかんとした顔で唖然としていた。
真衣みたいに甘いと呆れているのだろうか。
「私は自分のしたいようにしようって、決めたんだ」
自分がしたいことを、時には優先することだって大事だ。たとえ対処が甘いと言われても、これが私の望んだこと。
「私、時枝くんに思い出してもらえなかったら、あのまま今もひとりぼっちでみんなから忘れられていたと思う」
本来なら起こったことを、なかったことにはできない。
それがたとえ誰かの悪意から生じた理不尽なことだとしても。自分なりの選択肢を見つけて、心を守る方法をみつけていかなければいけないんだ。
「宮里が俺に傘を貸してくれたからだよ。だから俺は宮里を思い出せた」
それなら始まりは、四月に時枝くんが傘をくれたことからだ。
あのあとに、今度時枝くんが傘を忘れたときに、私が傘を渡すと約束をしたから、ロッカーには傘が二本入っていた。
雨が降り頻る中、傘をさして少しくぐもった声で私に話しかけてくれた時枝くんの姿が頭に浮かぶ。あの日から、私の中で彼は目で追ってしまう人になった。
なんだかくすぐったい気持ちになって、気を紛らわすように窓を開ける。外には桜の木が満開に咲いていて、柔らかい春の匂いがした。
「宮里」