世界が私を消していく
その日の放課後は、英里奈にいつ話しかけるかで頭がいっぱいだった。けれど、帰り際に声をかけようとしたものの、すぐにいなくなってしまい、結局声をかけられなかった。
「――そうそう、聞いてよ」
隣を歩いている未羽が、白い吐息を漏らす。
私たちは中学から一緒で高校になってからクラスが離れたけれど、こうして未羽のバレー部の練習がない日は帰る約束をしている。
「昨日さ、弟に私のアイス勝手に食べられたんだけど、見てよここ! ちょっと言い合いになって、あいつ引っ掻いてきたの!」
未羽が薄らと頬に赤い線のように残っている傷を見せてくる。
「本当だ。ちょっと痕になってるね」
「あいつ、本当腹立つ! 絶対あのアイス弁償させてやる!」
石井家の姉弟喧嘩はいつものことだ。それよりもこんな真冬にアイスを食べていることの方が私は驚いた。
「未羽、寒くないの?」
冬だというのにコートを着ず、ブレザーを羽織っているだけ。マフラーすらしていない。長い髪も高い位置でひとつに束ねているため、耳が出ていて寒そうだ。
「下にジャージ履いてるよ〜。ほら」
未羽はスカートを指先でつまむ動作をして、ニッと白い歯を見せて笑う。
「でも短パンだし、あんまり暖かくなさそうに見えるけど……」
「私、寒さに強いからへーきへーき! 紗弥こそマフラーに埋もれて息苦しくない?」
私はというと、分厚くて白いマフラーを首に巻いて、厚手のダッフルコートを着ている。防寒対策をしているものの、外気に晒されている膝が冷えて赤くなっていた。
「むしろもっと暖かくしたいくらいだよ。今日特に寒い」
こんなときはズボンを履いている男子が羨ましくなる。寒くてスカートを下げても、どうしても足を完全に隠すことはできない。
ふとそんな会話を英里奈と真衣が仲良かったときにしていたなと思い出して、無性に寂しくなってくる。あんなふうに笑い合う日はもうこないのかもしれない。
「紗弥、なんかあった?」
「え?」
「元気ないじゃん」
隣を歩く未羽をちらりと見ると、控えめに微笑まれる。
「ちょっと……友達との間でいろいろあって。だから少し考え事してたんだ」
軽く息を吐くと白い息が空気に溶けていく。冷え切った指先をダッフルコートのポケットの中に突っ込んで、ぎゅっと握り締めた。
「でもちゃんと話そうって思ってる」
だから心配しないでと笑いかける。
「あのさ、紗弥」
目が合うと、未羽が言いづらそうにしながら言葉を続ける。
「英里奈とあんまり関わらない方がいいと思う」
「え? なんで……?」
このタイミングで英里奈の話をされたことに、顔を硬らせる。
未羽は英里奈と同じバレー部員だ。もしかしたら私たちの間で起こっていることを本人から聞いたのかもしれない。
「そのいろいろって、英里奈が関わってんじゃないの?」
「なにか英里奈から聞いたの?」
「そういうわけじゃないよ。ただバレー部でも、英里奈が原因で揉めることあるからさ」
初めて聞いた内容に、私は思わず「揉めてるの?」と聞き返してしまった。すると未羽が苦い顔をして頷く。
「そ。しかも、何度もあるんだよね。少し前は遥が英里奈に怒ってたし」
今まで英里奈から部内でトラブルがあったという話は一度も聞いたことがなかったのだ。
廊下で英里奈がバレー部の人と会話をしているのを目撃したことがあったけれど、特に険悪そうには見えなかった。
「英里奈って明るいし人当たりいいから、最初は気づかないけど、仲良くなると色々問題あるし、バレー部でも頻繁にトラブルがあって結構参ってるんだよね」
普段は滅多に人のことを悪く言わない未羽がここまで言うことに内心驚いた。
英里奈に対して、未羽の中で許せないことがあるのかもしれない。
「紗弥たちの揉めてる内容って、誰かの物真似をしたり、欲しがっていたものを先に買ったりとか、そういうのではないの?」
「え……」
「部内でもよくあったんだよ。誰かが欲しいって言ってたものを、数日後には英里奈が持ってたり、行きたいって言ってた場所を英里奈がSNSに上げてたり」
「でもそれは……」
「もちろん偶然かもってみんなはじめは思ってたよ。だけど、それがあまりにも頻繁にあったんだ。しかも誰かがお勧めしたものを、他の人にまるで自分が見つけたみたいに教えてたりしてて、だんだん不信感が募っていったんだよね」
未羽の話を聞いて思い返してみると、真衣が欲しがっていた香水を先に英里奈が買っていたこともあった。
それ以外にも英里奈が持っている物と真衣が持っている物が被っていることが多い。
私はそれをふたりは気が合うし、仲がいいからだと捉えていたけれど、実際は一方的なものだったのかもしれない。
「中学一緒だった子に聞いた話なんだけど、その子の好きな人を知った英里奈が、応援してるって言ってたのに、その男子と裏でこっそり仲良くしてて英里奈が付き合いだしちゃったんだって」
どくんと、心臓が嫌な跳ね方をした。それは今の状況と少し似ている。
「信じたくないかもしれないけど、英里奈がどういう人か理解した方がいいよ。一旦仲直りしても、また揉めるかもしれないし」
真剣な顔をしている未羽から、私は思わず視線を逸らしてしまう。
英里奈を信じたい気持ちと、未羽が嘘をついているようにも思えない気持ちがあって、頭が混乱してくる。
誰かの真似をしたり影響を受けるのは、されている方は嫌な気持ちになるのだと思う。けれど一条くんの件は真相がわからないし、英里奈と接していて私自身が傷つけられたことはない。
「紗弥のこと心配なんだ」
「……うん。でもこのまま終わらせたくないから、一度ちゃんと話してみる」
「話しても意味ないと思うけど」
どうしてそんな風に決めつけるのかと未羽を見ると、呆れたように肩を竦められる。
誰かの真似をするという英里奈の行動に思い当たる節もあったので、未羽から聞いた内容に驚きつつも、納得してしまう自分もいる。
けれどそれが英里奈の全てだとは思いたくなかった。今は揉め事があったから、悪いところばかりに目がいってしまっているだけだ。
「英里奈は明るくていつも周りを盛り上げてくれたし、私は嫌なことなんてされてないよ」
「さっきの話聞いても、紗弥は英里奈のこといい子だって思ってるの?」
「だって、誰かが落ち込んでると真っ先に元気づけようとしてくれるのはいつも英里奈だったから……揉める件も私は英里奈だけが悪いなんて思えなくて」
由絵が彼氏と別れて泣いていたとき深夜まで電話をしたり、部活のない日は由絵が歌うこと好きだからってカラオケに誘って元気づけようとしていた。
「ならなんで、英里奈ばっかり問題が起こるの?」
「それは、バレー部のことは私にもよくわからないけど……でもクラス内での揉め事はこれが初めてだから」
「紗弥は英里奈の都合のいいところしか見ようとしてないんだよ」
「っ、なら未羽は英里奈の悪いところばかり見ようとしてるでしょ」
お互い引く気のない会話が続いて、私と未羽が喧嘩をしたかのように気まずい空気が流れた。
そのまま大した言葉を交わさずに、私たちは分かれ道まで辿りつく。
普段なら、元気よく「またね」と言葉を交わすのに、「じゃあね」とだけ未羽が口にして背を向けてしまう。私たちはそのまま別々の道を歩いた。