偽装夫婦のはずが、ホテル御曹司は溺愛の手を緩めない

 愛用の薄手のカーディガンを羽織ったあかりは、気温よりも空腹のことを考えた。

 普段なら遅番でも二十一時にはサロンを出れるのに、今日はすでに二十一時半を回っている。休憩時間に別のスタッフが差し入れてくれたシフォンケーキをひときれ食べたが、労働の後に食べたいものといえば脂質とたんぱく質に限る。

「にく……牛肉……ぎゅうどんが食べたい」

 カーディガンのポケットに入れたスマートフォンを手探りしながら、独り言を呟く。豚か、鶏か、牛か、と問われれば今日はなんとなく牛の気分だ。

 今のうちにモバイルオーダーアプリを使って、最寄り駅のコンコース内にある牛丼チェーン店に事前注文をしておこう。そうすれば駅に着く頃にはテイクアウトの準備が丁度整っているはず。

 牛丼チェーン店のメニューリストが目に入った瞬間、あかりは今日の夕食を即決する。

「よし、今日は温玉牛丼にしよう!」
「丼かよ」

 ついでにちょっと贅沢に温泉卵を乗せちゃおう! と意気込んだ言葉は、後ろから掛けられた声のせいで綺麗に吹き飛んだ。

 何処かで聞いたことがあるような男性の声に驚き、そのままがばっと振り返る。

「え……!?」

 慌てて振り返った先に立っていたのは、先ほどまでリラクセーションサロンであかりの施術を受けていた相手――入谷 響一だった。

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