偽装夫婦のはずが、ホテル御曹司は溺愛の手を緩めない

 思いもよらない相手の登場に、ただただびっくりしてしまう。

 響一が店を出てから閉店作業を行い、カルテの記入や雑務を終えるまで約三十分。つまり三十分も前にサロンを出たはずの響一が、何故かまだ店の前の通りにいたのだ。驚くに決まっている。

「お疲れ」
「え、あ、お疲れさまです……?」

 何してるんですか? と聞こうとしたが、お疲れ、と声を掛けられた条件反射で、先に慰労の言葉が口をついた。

 それから改めて、何しているんですか? と聞くつもりだったのに、それよりも響一が口を開く方が早かった。

「牛肉が食いたいのか?」
「んえっ……?」

 意表を突かれたせいで変な声が出た。先ほどのあかりの独り言は彼にもしっかりと聞かれていたらしい。訊ねようとしていた言葉がまたもや何処かへ吹き飛んでしまう。

 ぱちぱちと瞬きをするあかりの仕草がおかしかったのか、響一がふっと表情を緩めた。

 造形は弟の奏一とほぼ同じだが、どことなく冷たい印象を受ける。その響一に少しだけ柔らかな笑みが宿る。凛々しくも優しいその笑顔に、あかりはしばし見惚れてしまう。

「俺のせいで残業になったんだろ? 飯奢ってやるからついて来い」
「えっ……」

 確認の後ろにくっついていた台詞を認識すると、あかりはまたもや仰天してしまう。

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