偽装夫婦のはずが、ホテル御曹司は溺愛の手を緩めない

「荷物はどうする?」
「あ、今日だけじゃなくて、明日もシフト入ってないんです。店長が気を利かせてくれて……だから残りは明日やろうかなって」

 ソファの隣に座る響一が動くと、シートが沈んであかりの身体も少しだけ彼の方へ傾く。

 香水だろうか――響一が動くと、深くて甘くてほろ苦いフゼアノートが香る。大人の男性の匂いがわずかに鼻腔をくすぐる。これまでにないほど近い場所で彼の存在を感じると不思議な緊張感を覚えてしまう。

 だがしかし、あかりと響一は契約夫婦。物理的距離が近付いたところで、二人の間には甘やかな空気は訪れない。

「じゃあ、こっちだな」
「っ、え……?」

 そう思っていたのは、あかりだけだった。

 短い言葉とともに、身体をぐいっと引っ張られる。意外にも強い響一の力に、思考と体勢を乱されてしまう。ふと気が付くと、あかりは響一の膝の上に座らせていた。

「な、ちょ……っ」
「ん?」

 しかも横抱き。いわゆるお姫様抱っこの状態。顔の距離もぐっと近付き、先ほど感じていた彼の香りも急激に濃度を増す。

 急接近どころか、急密着。あかりの楽しいほろよい気分は一気に吹き飛んでしまう。

 背中を支える響一の手が脇腹から前へ回り込み、指先が胸の横に触れる。その瞬間、身体がピクッと小さく反応する。

 唐突に変わった体勢と手の位置で、あかりは気付きたくなかった響一の真意に気が付いてしまう。

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