偽装夫婦のはずが、ホテル御曹司は溺愛の手を緩めない

 無理強いをするつもりはないだろうが、だからと言って逃れることは許されない。拒否などさせてもらえない。きっと『嫌じゃない』と口にするまで解放してもらえない。

 だからあかりも覚悟を決める。結婚して彼のパートナーとなった今、肌を合わせて身体を繋げることを許されるのは、お互いだけなのだから。

「あの……一つだけお願いが」
「なんだ?」

 けれどその前に、あかりには響一に改めてほしいところがあった。先ほど婚姻届けを提出し『桜井あかり』から晴れて『入谷あかり』になった記念に、そのぐらいはおねだりしてもいいだろう。

「……お前、は嫌です。名前で呼んで下さい」

 あかりの願いはたった一つだけ。

 出会ってからまだ一度も呼ばれたことのないこの名前を、妻として彼の欲を満たすご褒美に呼んでほしい。結婚しても唯一変わらない名前を、彼にはちゃんと呼ばれたい。

 イリヤホテルグループの御曹司である響一に心の底から愛されたいと願っているわけじゃない。そんなおこがましいことは望んでいない。

 もちろん自分たちが対等な関係だとも、まして彼を独占したいとも思っていない。住む世界が違う響一を、結婚したというだけで縛り付けるつもりはない。

 けれど名前ぐらいは呼んで欲しい。
 存在だけは認めて欲しい。

 それすら過ぎた願いだろうか――と小さな願いを口に出したことを後悔しはじめた矢先、響一が背中に回していた腕の位置を下げた。

 とさ……っと小さな音と共に、身体がソファに深く沈む。お姫様抱っこの姿勢から押し倒される体勢に変わったと気付いたのは、そのすぐ後だった。

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