偽装夫婦のはずが、ホテル御曹司は溺愛の手を緩めない
今になって考えてみれば、通い慣れた常連の奏一ならばこうやって自分で施術の準備をしてくれる。その時点で彼らの違いに気付いていれば、こんな状況にはならなかったのだろうか。それともすぐに気付かなかったからこそ、こんな状況に恵まれたのだろうか。
少し前の自分の失敗未遂を思い出しながら、一声かけて奏一の首の後ろに触れる。相変わらず僧帽筋の上部だけがやたらと凝るタイプの人だ。
「兄さんとの生活はどう?」
凝り固まった首の周囲筋を丁寧に解していると、白いタオルの下から疑問の声が聞こえてきた。軽い口調で投げかけられた質問に、あかりは素直な感想を返す。
「最初に想像してたよりずっと快適です。一緒に外食してるときに政治家さんとかに話しかけられるのは……まだびっくりしちゃいますけど」
「あはは、そうだよね」
田舎に住む両親の催促を退ける代わりに、あかりはイリヤホテルグループ御曹司の妻役を担うことになった。その責務はさぞや重たく、生活はむしろ窮屈になるのかもしれないと覚悟していた。
ところが、実際はその真逆だった。響一と結婚したからといって、あかり自身がイリヤホテルグループに関わる仕事をするわけではない。