婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。

 良い家で生まれ育った、社会的地位のある人だとは予想していた。
 だけど、食事をご馳走になったホテル、さらには一夜の思い出となったホテルの社長を務める人物などとは、誰が思うだろうか。
 来客の挨拶に、立案班のメンバーが慌てた様子で一斉に立ち上がる。朝海も周りに急かされるように椅子から立った。
「皆さん、堅苦しい挨拶は結構ですから。座ってください」
 聡志の促しに、皆がまた一斉に席に着いた。それを確認して、手近な空き椅子に聡志が座る。その動作は流れるような優雅さを感じさせた。
「このたびは当社の急な依頼をお引き受けいただき、誠にありがとうございます」
 頭を下げるだけの仕草にも、育ちの良さがにじみ出ている気がする。隣に座る女子社員がため息のような声を出した。さっき聞こえたため息もこの人だったのだろうか。
「当社は今後、さらに皆様に親しまれるホテルを目指していく考えです。そのための改装を去年からおこなっておりますが、今年度は大阪のホテルで進めていく予定でおります」
 決して大きくはないが、よく通る声で活舌も良く、聞き取りやすい。
「そのためのパートナー候補として、私自ら、御社を選ばせていただきました。どうぞ、皆さんのお力を存分に発揮して、最高の改装案をご提示いただきたく、お願いをする次第です」
 よろしくお願い申し上げます、とふたたび聡志が頭を下げると、室内は大きな拍手に包まれた。
 同じく拍手しながら周囲を見回すと、メンバー全員の目が輝いている。この短い時間で、聡志は皆の心をつかんだのみならず、鼓舞することに成功したらしい。社長という肩書が伊達ではないことを、彼はこの場で証明したのだ。
 その後、立案班メンバーが順に、簡単な自己紹介をおこなう。聡志から見て右端の社員から始まり、四番目に朝海の順番が回ってきた。立ち上がる。
「──松村朝海です。内装デザインを担当させていただきます。よろしくお願いいたします」
 控えめな拍手の中、席に座り直す。聡志の反応はといえば、彼は他のメンバーの時と同じく穏やかな笑みで朝海の自己紹介を聞き、大きすぎない拍手をこちらに送った。
 ホテル側の希望と、立案班が出した大枠案のすり合わせを行い、より細かく希望に沿った案に修正すると結論を出して、顔合わせを兼ねたミーティングは終わった。
 聡志と秘書が出ていき、小会議室にざわめきが戻ってくると、ようやく朝海は大きく息をつけた。
 ずっと、息詰まる緊張が続いている気分だった。
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