婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。

 肩の力を抜いたのも束の間、右隣から上着を引かれる。
 エクステリア、外観や庭関係を担当する部門の代表が、目をやたらと輝かせて「ねえねえ」と声をかけてきた。
「四ノ宮の若社長、写真でもイケメンだけど、実物は比べ物にならないわね」
「……そうですね」
「あら、興味ないの?」
「興味ですか」
「そうよ。彼、独身でしょう。彼女はいるかもしれないけど。仕事をきっかけにお近づきになれたら楽しいじゃない。うまくいけば一夜のお情けぐらいもらえるかも」
「すみません私、そういうのは」
「やあねえ、言ってみただけじゃない。仕事は当然わきまえるわよ」
 それに、と相手は少しだけ声の興奮を抑えて続ける。
「あんな良い家のお坊ちゃんが、私たちみたいな庶民を本気の恋愛対象に考えるわけないもの。でも想像するぐらいは自由でしょ?」
 後半をいたずらっぽい口調で言い、片目をつぶる。彼女の割り切り具合がうらやましい、と朝海は思った。
 気づくと、他のメンバーはすでに、小会議室からいなくなっていた。隣の彼女も次の仕事があるのか、言うだけ言って「じゃまた」とあたふたと出ていく。
 朝海も当然、次の仕事はあるのだが、ひどく疲れた気分が抜けなかった。

 フロアに、終業時間を知らせるチャイムが響き渡る。
 ミーティングがあったわりには他の仕事にあまり時間を費やすことなく、久しぶりに朝海は仕事を定時で終わることができた。時刻は午後五時半過ぎ。
 なんだか今日は疲れた。いい機会だから早く家に帰って、のんびりしよう。
 そんなことを考えながら会社の入るビルを出て、駅に向かって歩いていると。
 大通りに差し掛かったところで、一台の車が近づいてきて速度を落とした。邪魔なのかと思って朝海は避けるが、車はスピードを緩めたまま付いてくる。
 しばらく歩いていっても状況が変わらないので、気味悪く思い、朝海は駆け出そうとした。
 そのタイミングで、後ろから「待って」と声をかけられる。
 聞き覚えのある声に立ち止まって振り向くと、同じく止まった車の、後部座席の扉が開いた。
「やあ、お疲れさま」
「……お疲れさまです」
 車から降りてきた聡志は、やけに上機嫌な様子だった。
「これから帰り?」
「そうです。だから失礼します」
 短く言って去ろうとすると、すかさず腕を引かれる。
「そう急がないで。それとも何か用事が?」
「早く帰りたいんです。お腹も空いてますし」
 
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