婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。

「ならちょうどいい、一緒にディナーといこう」
「あの、話、聞いてます?」
 つかまれた腕をさらに引かれ、慌てて振り払おうとするが、思いのほか強い力で解けない。
「聞いてるよ、腹減ってるんだろう。いい所知ってるから」
「そうじゃなくて」
 早く帰りたい、と言ったのは都合よくスルーされているようだ。朝海はささやかな抵抗を試みたものの、聡志の力ではまったく意に介されず、車に連れ込まれてしまった。
 あきらめて座席に落ち着くと、当然のように聡志は隣に座り、しかも体を触れんばかりに寄せてくる。朝海はぎょっとして後ずさった。正確には座席右側の空きスペースに。
「な、何ですかっ」
「元気そうだね。ミーティングの時は固い顔してたから心配だったけど」
 コロンの香りが漂ってきて、頭がくらっとする。あの日も付けていた、同じ香りだ。
 様々なことを連想して沸き起こってくる動揺を懸命に抑え、朝海は言い返した。
「まだ、うちと本契約交わしてらっしゃいませんよね。そんな会社の人間と会ってるのがバレたら、まずいのでは?」
「今日の仕事は終わったんだろ。僕もそう」
 ていうか早めに切り上げたんだよ、と聡志はこともなげに言う。
「……まさか、私が会社から出てくるの、待ってたんですか」
「そうだと言ったら喜んでくれる?」
 先ほどからの上機嫌を、聡志は崩さない。だから錯覚してしまいそうになるが、自分と彼は、そんな関係ではないのだ。必死に言い聞かせながら、朝海は彼の言葉を否定する。
「いいえ、迷惑です。今日は早く帰りたかったんです。疲れたから」
「そんなに忙しかったのか。デザイナーも大変だな」
 誰のせいだと思ってるのか、と朝海は心の中でつぶやいた。
「なにぶん、急な仕事が入って、調べものに時間がかかりましたので」
 嫌味を混ぜて答えると、いちおう伝わったらしい。「ああ、それはすまない」と聡志が苦笑する。
「こちらも、急に別業者を候補に入れる必要ができたと聞いたもので、急いでたんだ」
「急に?」
「まあ、いろいろあってね」
 聡志はそう言って口をつぐんだ。それ以上は内輪の話なのかもしれない。今日の仕事は終わったと言った手前、詳細に触れる気はないようだし、そもそも本契約を交わしていない依頼先の関係者に明かす話ではないだろう。
 ふと、思いついてしまった気になることを、朝海はおそるおそる口にする。
「……あの、まさか、私のこと事前に調べた上でうちを選んだとか、ないですよね?」
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