婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。

「ここは」
「そう、うちのホテル。改装案を出してほしい所だよ」
 四ノ宮グランドホテル大阪。ターミナル駅が最寄りであり、場所は知ってはいたが、来るのは初めてだ。
「さ、どうぞ。お嬢さん」
 先に車から降りた聡志が、恭しい口調でそう言って、手を差し伸べる。
 あの日の京都見物を思い出し、懐かしい思いと胸の痛みがよみがえってくるが、息をひとつ吸い込んでやり過ごした。
「ひとりで降りられますから」
 伸ばされた手を避けて朝海は降りたが、聡志はまったく傷ついていない様子で、手の行き所を朝海の肩に変更した。引き寄せられて慌てる。
「ちょっ、何を」
「せっかくだから、中を案内するよ。改装案の材料にしてくれたらいい」
 言いながら、聡志は朝海の肩を抱いた状態で、エントランスに入っていく。ドアボーイが社長に気づいて深くお辞儀をし、フロントからは責任者らしき男性が出てきた。
「社長、ご苦労さまでございます。本日のご用件は?」
「支配人は時間が取れるだろうか。あと、部屋をひとつと、ディナーのルームサービスを」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 男性がフロントカウンターへと戻っていく。朝海は聡志の導くまま、ロビーにしつらえられた休憩スペースのソファに座った。
「……案内なんて、そんな、情報を漏らすようなことなさっていいんですか」
「問題ないよ。より良い案を出してもらうため、改装を依頼する部分の公開はどの会社にもおこなってることだからね」
 それに、と聡志は少し声を低めて続ける。
「君には、ホテルのことをもっと、よく知ってほしいと思ってる」
 思いがけず真剣な声音に、朝海は戸惑った。
「……それは、どういう」
「お待たせいたしました」
 朝海が問い返そうとした時、声がかかった。顔を上げると、先ほどのスタッフとは違うデザインの制服を着た、四十代後半と思われる男性が直立不動で立っていた。
「ああ、森尾くん、久しぶりだな。体の調子はどうかな」
「おかげさまで問題なく働かせていただいております」
「ご家族は元気かい。下のお子さんは中学生になったんだったかな」
「はい、覚えてくださっていて恐縮です」
「ご家族のためにも、うちのホテルのためにも、まだまだよろしく頼むよ」
「心得ております。それで、本日は?」
「彼女に、改装予定場所を案内したいんだ。頼めるかな」
「承知いたしました。ではこちらへ」
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