婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。

 支配人の男性の先導で、まずは、広いロビーをひと回りさせられる。どうやらここも、改装予定場所のひとつらしい。朝海は現在のコーナー配置や絨毯の色などの観察を始めた。
 シングルルーム、ダブルルームと案内されていくうちに、朝海の頭の中はどんどん仕事モードになっていく。手帳にできる限りのメモを取り、必要と思われる部分は簡単にスケッチもした。
「さすが、絵が上手いね」
「仕事ですから」
 手帳をのぞき込んできた聡志に、朝海は短く答える。
 絵は、入社当時はそれほど得意ではなかったが、デザイナー職に就いてから独学で練習した。
 一時間ほどを費やし、支配人による館内の案内は終わった。
 支配人が頭を下げて離れていくと、急に肩の力が抜ける。ふう、とこっそりついたつもりのため息に気づかれ、聡志がまた肩に手を伸ばしてきた。
「お疲れさま。すごく真剣に見てくれてたね」
「……仕事ですから」
 さっきも同じ返答をしたなと思いつつ、聡志の手からさりげなく逃れようとするが、させまいと言うかのように引き戻される。
「七時か。ちょうどいい時間だな、行こう」
「え、どこに」
「一緒にディナーって言っただろ。ルームサービス、ちょっと前に業者を変えたんだ。お薦めのメニューだから君に食べてほしい」
 と話す聡志に連れていかれたのは、一般のエレベーターホールとは違う、フロア奥に隠れるようにある小さなエレベーター。押されたボタンは最上階だった。
 着いた階には、扉はひとつだけ。開けると、とんでもなく豪華な部屋が待ち構えていた。
 最初に足を踏み入れた玄関ホールだけでも、普通のシングルルームの倍はある。いかにも高級そうなソファとテーブルも置かれており、セレブが行く病院の待合室みたいだ、なんてことを朝海は考えた。
「あの、ここって」
「VIP専用の部屋だよ。大事な来客がある時とかに使わせてもらってる」
 何でもないことのように聡志は説明する。その、あまりに普通の口調に、住む世界の違いを朝海は実感した。
(そうよね……今さらだけど、この人とは世界が違うんだ)
 浮かんだ思いにまた、そこはかとなく胸が痛む。だが口にはしなかった。
 玄関ホールから廊下を抜けて、ダイニングルームに案内される。キッチンが完備されており、そこには、一人の男性コックが待機していた。
「お待ちしておりました、社長」
「ああ、ありがとう。今夜は彼女のために腕を振るってほしい」
「かしこまりました」
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