婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。
第3章

「はい、松村ですが」
「受付に来客ですので、玄関に出てきていただけますか」
「どなたですか?」
「弁護士の諸岡、と名乗ってらっしゃいます。緑川さんの件だと」
 緑川、という名前で朝海の思考は一瞬凍り付いた。
 息を吸い込み、内線電話の向こうの、受付嬢に返答する。
「わかりました。すぐに行きます」
 ちょうど、依頼先との約束があり、出ようと思っていたところだった。早めの行動を心がけていたので、それまでにしばらくの時間はある。
「部長、R社まで出かけてきます。戻りは夕方になるかと」
「ああ、よろしく頼むよ」
 資料と見本の入ったカバンを二つ下げて、玄関まで下りていくと、受付カウンターから受付嬢と、もう一人の視線が朝海をとらえた。
 眼鏡をかけた白髪交じりの髪の、スーツの壮年男性だ。いかにも弁護士、といった空気をまとっているように見えるのは、こちらがそう認識して身構えているからだろうか。
 男性が体ごと振り向くと、スーツの襟の弁護士バッジが、照明を反射して光る。
「松村朝海さんですね。京都弁護士会の諸岡と申します」
「……はじめまして」
「はじめまして。少しお話をさせていただきたいのですが、どこか場所はありますか」
「今から外回りなので、外の店でもいいでしょうか」
「かまいませんよ」
 そう言って微笑む諸岡弁護士は、少しだけ父親のような安心感を抱かせる印象になった。
 だが油断はできない。この弁護士は、「婚約者」と思っていたあの男──緑川龍一の手先なのだから。
 ビルを出てしばらく歩き、セルフサービスのカフェに入った。一番奥の四人掛け席が空いていたので、飲み物を買った後、そこに向かい合わせで座る。
「──それで、何のご用件でしょうか」
「受付の方も言っていたと思いますが、緑川さんの件ですね。緑川龍一さん、ご存じでしょう」
「はい」
「あちらから、あなたに対して謝罪要求と、慰謝料の請求が出ています」
「……どういうことですか、それ」
 謝罪? 慰謝料?
 冗談ではない。それらを要求したいのはむしろ朝海の方だ。だが文書などの残る形で約束を交わしたわけではないし、傷つけられたのは朝海の心だけだった。心情的には「だけ」と言えないにせよ、取り出して他人に見せられるものでもない。
 金銭や身体的な実害がない以上、自分が我慢する、泣き寝入りをするしかないのだと思っていた。
 直後にいろいろあって、泣き寝入りどころではなくなってしまったけれど。
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