婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。

「まあ正確に言えば、要求と請求をおこなっているのは、緑川さんが婚約なさっている女性ですね」
「…………」
「夏目紗和子さんです。緑川さんは彼女の配偶予定者として、訴えでは連名の扱いです」
 あの日、緊張しながら訪ねた龍一の実家。玄関先で龍一の隣にいた、着物姿の女性を思い出す。
 お茶の家元のお嬢さん、という肩書がよく似合う、清楚を絵に描いたような美人だった。
 彼女と、子供の頃から婚約の話があったというのに、龍一は朝海に手を出したのだ。大手和食チェーンに修行に出てきた先、龍一の細かい人間関係を知る人間はいない大阪で。
「半年前、お二人の婚約披露の場に、訪ねて行かれたそうですね」
「あれは、龍一さんに、来るようにって言われて」
「夏目さんはあなたを当初、緑川さんの友人と思っておられましたが、あなたの態度がおかしかったので、緑川さんに尋ねたそうです。すぐには答えなかったようですが、後日打ち明けられたそうです。大阪で働いている時にあなたと知り合い、関係を持ったと」
 そこで諸岡弁護士は一度言葉を切り、コーヒーをすすった。
「それを聞いて夏目さんは、大変ショックを受けた。幼い頃から婚約していた自分を無視して他の女と楽しくやっていたのか、とね。緑川さんが言うには、先に接近してきたのは向こう、つまりあなたの方だった。自分は当初、付き合う気はなかったと」
「……そんな」
 嘘である。先に交際を望んできたのは、龍一の方だった。朝海はむしろ、仕事を一人で任されるようになって忙しいが楽しかったから、当時は誰かと付き合う気などなかったのだ。
 だが、龍一の少々強引だが情熱的なアプローチで心に火を点けられ、交際の申し込みを受け入れた。
 それを、自分ではなく朝海から行動したように話をしている……?
「でたらめです。付き合おうと言ってきたのは龍一さんの方でした」
「証拠はありますか?」
「それは……」
 口で言われただけだから、そんなものはない。朝海は唇をかんだ。
「ありません」
「ないのなら、説得力に欠けますね。緑川さんは、あなたの好意は嬉しかったが正直迷惑にも感じていたとおっしゃっています。いつも、夏目さんに対する後ろめたさがあって辛かったと」
「……それだって、龍一さんが言っているだけなのでは?」
「ですが、緑川さんは『みどり家』のご嫡男ですからね。どちらが世間的な信用が高いか、考えるまでもないでしょう?」
 朝海は言葉に詰まった。
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