婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。
『みどり家』は龍一の実家が十代以上にわたって経営している、老舗の割烹料理屋だ。
この不況下でも経営は順調であるらしい。潤沢な資金をもとに亡き祖父は市議会議員を務め、叔父のひとりは現役の府議会議員と聞いている。
そんな家の跡取りと婚約者と、一般庶民でしかない朝海の、どちらサイドが社会的地位が高いか。
諸岡弁護士の言う通り、考えるまでもなかった。
「まあ、夏目さんと緑川さんも、無茶をおっしゃっているわけではありません。あなたがお二人のもとに出向き、直接の謝罪と文書への署名をしてくれれば良いと」
「文書?」
「二度と緑川さんと夏目さんの前に姿を現さない、連絡も取らないという内容です。それと、慰謝料として二百万円のお支払いを願えれば」
二百万。それが、この問題の慰謝料として適額なのかどうかは、朝海にはわからない。
だが提示された金額の意外な安さに、これぐらいなら庶民の朝海でも支払えるだろうと軽く思われた、懐具合を勝手に探られた気分にさせられ、苦い気持ちが込み上げる。
「松村さんが拒否なされば、そちらにも弁護士を立てていただき、裁判で争うことになります。そうなれば傷ついて失うものが多いのがどちらであるか。よく考えて、結論をお出しになってください」
と、諸岡弁護士はスーツの内ポケットから取り出した名刺入れから、一枚を引き抜いてテーブルに滑らせた。
「私の連絡先はこちらになっていますので、結論が出ましたらご連絡ください。それでは本日はこれで」
言うだけは言った、という尊大さを匂わせ、諸岡弁護士は椅子から立ち上がる。
飲み終わったコーヒーカップと皿を持ち、店の入口へを向かう彼を、朝海は見送る気力もなかった。
九月も下旬に入ったが、夕方になっても吹く風はまだ生ぬるい。スーツの上着の袖が、腕に貼りつく感覚がする。
会社への道を、朝海はずっしりと重く感じる体を引きずるように歩いていた。
──四ノ宮グランドホテル大阪の仕事の話から、半年。
五月におこなわれたプレゼン対決で、朝海の会社は見事、改装の依頼を勝ち取った。デザイン案の作成には、聡志が手配してくれた支配人による案内が非常に役立ったが、会社には「個人で見学を申し込んで行った」と話してある。
これまで、四ノ宮グループで改装全般を引き受けていた大手の業者については、前担当者との間で契約のトラブルがあったらしい。なんでも、発生した不備を規定に従って報告せず、あまつさえ隠蔽しようとしたのだとか。