婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。
聡志は、何度言っても飽きない、言い足りないというふうに、朝海を好きだと言ってくれる。
……だが、それ以上のことは、何ひとつ言われていない。
それどころか、家族の話もほとんど、聞いたことがない。
妹がいることは、初対面の日に聞かされた。父親はまだグループの会長として現役だし、たまに語ることからすると母親も健在のようだ。しかし、それ以上のことは何も知らない。
聡志と自分とは、住む世界が違う。金銭的感覚や仕事に対する考え方からしても、それは明らかだ。
朝海にとって仕事は、日々を充実させてくれるものではあるけれど、根本的には生活するための術である。対して、聡志にとっては「自分に課せられた宿命であり、一生かけて成し遂げるべきこと」なのだそうだ。ホテルと、ゆくゆくはグループ全体を守り発展させていくこと。それが彼の宿命であり、使命なのだと言っていた。
聡志は、ホテルの大チェーンを含む、四ノ宮グループを守っていく人。
その隣に並ぶには、相応の育ちをした、賢さと美しさを兼ね備えた女性でなくてはならない。
自分がその座にふさわしいとは、朝海はかけらも思わなかった。
父親はあと数年で定年となる中小企業のサラリーマン、母親は元ケアマネージャーで、今はパートでヘルパーの仕事をしている。二人とも真面目に誠実に仕事をこなし、穏やかな家庭を築いてきたが、ごくごく一般的な市民、いわゆる庶民だ。祖父母の家もその前の代も同じくである。
朝海を好きだと言ってくれる、聡志の気持ち事態が嘘だとは思わない。
だけどその感情は、あくまでも期間限定であるのも知っている──彼にふさわしい、完璧な女性が現れれば、朝海への好意は潮が引くように冷めていくだろう。
それをわかっていながら、自分から離れていくことが朝海にはできなかった。
初めて抱かれた翌朝には気づいていた、けれど気づきたくなかった想い。
たった一日で聡志に惹かれた自分に、会うたびに彼が恋しくなる自分に、朝海は抗えずにいる。
いずれ終わる恋ならば、自分から終わらせるのが賢いとわかっていても。
聡志の顔を見ると胸が高鳴り、優しくされれば嬉しさで心が埋め尽くされる。そして抱かれている時の、体中を満たす強烈な幸福感。
みずから、それらを手放してしまいたくはなかった。愚かだとわかっていても、聡志が幸福を与えてくれる間は、そこに浸っていたかったのだ。