婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。
そんな機会が自分に巡ってくるとは、とても思えなかった。
聡志は、朝海との関係について、結婚に至るとは考えていないだろうから。
たとえ朝海が、ひそかに関係の発展を願っていても、それは叶わないことだとわかっている。
だから、彼がこの宝石を朝海に贈りたいと、気の迷いでも思ってくれたことを有難く受け取ろう。そんなふうに考えることにした。
「さて、食事に行こうか。いつもの店でいいかな」
「私はどこでも……」
どこでもいいです、と答えかけた時、スマートフォンが着信音を鳴らした。長く続く音は電話の着信を知らせている。
「電話?」
「ごめんなさい、ちょっと出ますね」
画面には、携帯と思われる番号だけが表示されている。アドレス帳に登録していない番号ということだから、家族や友人、馴染みの仕事相手ではない。
最近仕事するようになった依頼先の誰かだろうか、と思いながら通話ボタンを押すと、聞き慣れない男性の声が聞こえてきた。
「もしもし、松村さんの携帯でしょうか」
「どちら様ですか」
「私、弁護士の諸岡です」
相手の名乗りに、一瞬で興奮と血の気が引いた。
なぜ今、電話なんかしてくるのだろう。今日の昼に会ったばかりではないか。
「し、少々お待ちください」
聡志には聴かれたくない。その思いでいっぱいになって、何も言わずに彼から離れて歩き出す。
フロアの端、階段のあるスペースまで来る。
「お待たせしました。どういったご用件でしょうか」
「そろそろ結論をお出しになったのではないかと思いまして」
「……今日、お話を伺ったばかりなんですが」
「ですが事の重大性はおわかりになったでしょう。結論を出すのに、早いに越したことはありませんよ」
あくまでも穏やかな口調だが、相手の首を真綿で締めるような、じりじりと確実に責めてくる空気を朝海は感じた。こういう話し方が諸岡弁護士の武器なのだろう。
「──もうしばらく考えさせていただけませんか。今、人と会っているので、あまり話ができないんです」
なるほど、と諸岡弁護士が応じる。
「聞かれたくないお相手ということですか」
「…………」
「まあいいでしょう。どなたとお会いになろうとあなたの自由です。ただし軽率な真似はなさいませんように」
「しません、そんなこと」
「良いお返事を期待していますよ」
かすかな笑いとともにそう言い、諸岡弁護士の方から通話は切られる。