婚約者に裏切られたその日、出逢った人は。
愛情表現が「好きだ」から「愛してる」になってきているとはいえ、プロポーズはまだされていない。そんな状態で、親戚に会う話が進んでいったりして、本当に大丈夫なのだろうか。
今日の仕事を終え、帰路につきながら、朝海は考えていた。
(……そもそも、プロポーズしてくれる気、あるよね……?)
朝海との同居を「同棲」と言いたがるぐらいだ、先のことも聡志は考えてくれている……と思いたい。大学卒業後すぐに結婚し、今は夫の仕事の都合でイギリスにいるという彼の妹にも、オンライン通話で紹介してくれたのだし。
具体的な言葉や約束がない状態を不安に思うのは、朝海の性質なのだろうか。それとも女性は皆、そうなのだろうか。
だが、聡志は真面目で誠実な人だ。きっとこれからのことも考えてくれているに違いない。今はまだ、彼が考える「その時期」ではないだけで。
そう結論付けた頃、聡志のマンションが見えてきた。……そして、その前をうろつく、見慣れない人物も。
(……誰、あれ)
淡いピンクのワンピースを着た、たぶん若い女性だ。出入口の前でひたすら、ぐるぐると歩き回っている。うつむいていて表情はよく見えないが、なんだか普通ではない感じがした。
朝海は立ち止まって考えた。こちらではなく、駐車場に近い側の裏に回ろうかと。
その時、問題の女性が顔を上げ、朝海の方を見た。目が合った途端、ものすごい速足で近づいてくる。あまりの速度に、逃げようと思った足を実際に動かす暇がなかった。
「松村朝海ね」
三十センチほどの距離まで近づいてきた相手は、開口一番そう言った。普段美しく整えられているに違いない長い黒髪は乱れ、顔は青白く、頬がこけている。驚きと不気味さで否定も肯定もできず、朝海は「ど、どなたですか」としか言えなかった。
「夏目紗和子よ」
名乗られて、さらに驚きと不気味さが増す。夏目紗和子──龍一の婚約者。
言われてみれば、あの日一度だけ会った女性の、面影は確かにあった。だが、細いが健康そうな美人だったあの日の紗和子とは別人のようだ。こちらを見つめる眼光の鋭さに、朝海は寒気を覚える。
(この人が、私を訴えようとして、あの手紙を送ってきた人)
第一印象に似合わぬ行動が、気味悪さを増幅させる。
朝海が何も言えないでいると、紗和子は「ふてぶてしい女ね」と吐き捨てた。
「どうして、余計なことばかりするのよ」
「余計な、こと?」