優しくない同期の甘いささやき
熊野は抱く手を緩めなかった。微かにシトラス系の香りが鼻腔をかすめる。なんだか胸がむず痒くなった。

熊野にどこまで行くのかと訊かれて、居酒屋の名前を伝える。


「すぐそこじゃん」

「だから、近いって言ったよね?」

「ふうん、まあいいや、行こう」


無言で歩くこと5分、居酒屋の前に到着した。知奈から先に入っているとメッセージをもらったのは、会社を出る前だった。

私も早く中に入ろう。雨が降る外は空気がひんやりしていた。

店内は外よりも暖かいだろう。

熊野に手を振った。


「じゃ、また来週」

「ああ」


開いた自動ドアから店内に足を踏み入れる。男性店員が元気な声で「いらっしゃいませ!」と出迎えた。


「おふたり様ですか?」


店員は私だけではなく、私の後ろにも目を向けていた。

他の客がほぼ同時に入店したようだ。背後に顔を向けると、なに食わぬ顔した熊野がいた。


「えっ? ちょっと、なんで熊野もいるのよ」


手を振って、別れたはずだ。それなのに、なぜ一緒に入ってきてるの?


「俺もここで食べようかと思って」

「ええっ!」
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