悪役令嬢は騎士の腕の中で啼く――婚約破棄したら、爵位目当ての騎士様に求婚されました――
残された私は、身体を必死に動かそうと試みる。
だが、全くと言って良いほど、指先に力が入らない。
そうこうしているうちに、部屋の壁が煙たい匂いを発し始める。
部屋の中へと、煙のもやが届いてくる。
(どうしよう、このままじゃ、私……)
焦燥感で胸が詰まるようだが、改善策は見いだせない。
銀色の短い髪に、碧色の瞳をした幼馴染の騎士の顔が浮かぶ。
彼が自分のことを大切に思ってくれていたことはよく分かった。
(だけど、まだ、なんでお兄ちゃんが、わざわざ「爵位目当て」だって嘘をついて、私に近づいて来てのかが分からない……)
もしかしたら、クラーケと私が破談になった原因が自分にあると思って――。
だから、彼はしきりに私に嫌われていると言っていたのだろうか――?
(私は、お兄ちゃんのことを嫌いなんかじゃない)
だけど、それを伝えることができないまま、私は死んでしまうのだろうか。
そう思うと、涙が溢れ出して止まらない。
(せっかく、シルヴァお兄ちゃんへの気持ちに気づいたのに……)
だけど、容赦なく、煙は喉を焦がしてくる。
肺が焼け付くようだが、胸の苦しさの方がより強かった。
(まだ……何も伝えてない……)
火の手が部屋へと襲ってきた。
踊り狂う炎は、床に敷かれた古びた絨毯へと燃え移ると、一気に部屋の中を駆け巡る。
灰と火の粉が眼前を舞い散っていく。
煌々と燃え盛る焔は、私をあざ笑っているかのようだ。
だけど――。
(こんなところで死ぬのは嫌……!)
その時――。
「リモーネ! どこにいる! リモーネ!」
いつもは冷静なはずの青年の、切望した声が耳に届く。
(お兄ちゃん……来てくれた……)
彼のむせこむ声も聞こえた。
こんな状況下だというのに、安堵でまた涙が流れていく。
だが、部屋がいくつもある建物なのだろう。
次第に彼の声が遠ざかっていく。
(お兄ちゃん……)
絶望しかけた時――。
焼け落ちそうになっている扉の隙間から、泣きだしそうな幼馴染の低い声が届く。
「リモーネ! ずっと怖くて言えなかった……だけど、昔から、お前のことを――お前のことが好きなんだ――! 愛してるんだ――!」
必死な彼の言葉に胸が詰まる。
「俺が嫌いなら、偽の結婚を解消して良いから……お前が生きてさえいてくれれば、それで良いから――頼む――リモーネ、返事をしてくれ――!」
(お兄ちゃん……!)
私は、ここにいる。
だけど、彼の気配は遠ざかってしまう。
(お願い……ちゃんと、お兄ちゃんに私の気持ちを伝えたい……!)
ひりつく喉で、声の限りに、彼の名を呼んだ。
「――シルヴァお兄ちゃん……! お兄ちゃん――!」
だけど、届かなかったのだろうか。
建物が崩落していく音だけが、むなしく響く。
絶望が胸を支配しそうになる。
(だけど、あきらめたくない……!)
もう一度だけ、肺が痛みながら叫んだ。
「シルヴァお兄ちゃん!」
その時、炎に巻かれ焼け焦げた扉が、どうっと音を立てて倒れた。
新たな煙が部屋の中に立ち込める。
「リモーネ!!」
揺れる煙と炎の間から、見知ったシルエットが姿を現す。
「お兄ちゃ……」
煤にまみれた彼の顔を見て、涙がとめどなく溢れる。
動かない私の身体を、涙を流すシルヴァが抱き寄せた。
「リモーネ……!」
「シルヴァお兄ちゃん……!」
状況が状況だったが、嬉しくて胸が高鳴る。
だが――。
感動したのもつかのま、彼が入ってきた出入口に炭になりつつある柱で塞がれてしまった。
「あ――どうしたら――?」
シルヴァが迎えに来てくれて嬉しいが、単純にもう逃げ道がない。
しかも、セピアの言い分だと、ここは建物の最上階……。
助かるとは到底思えなかった。
死ぬなら、気持ちを今から彼に伝えて――。
そんなことを考えていた時――。
「リモーネ……俺を信じてくれるか……?」
「え……?」
私を横抱きにして立ち上がったシルヴァが、真摯な声音で告げる。
火の手による建物の倒壊も近い。
崩落する轟音が耳をつんざく。
もう一刻の猶予も許されていない。
「はい……!」
力強く私は頷く。
それを確認したシルヴァは――窓に向かって駆けだしたのだった――。