片想い婚
「あの……さっき、ありがとうございました」
帰り道、私は天海さんにお礼を言った。あれは明らかに、セクハラされてる私を助けてくれた。スマートで感心せざるを得ない。
天海さんは歩きながらああ、と思い出すように言う。
「ごめん、あんなことするタイプだとは知らなかった。今後は二人きりになんてさせないから。
新田さんも、ああいう時は無理してお酒とか飲まなくていい。セクハラもできるならさっと避けて僕に教えてくれればいいよ」
「相手の方の機嫌を損ねるかと思いまして……」
「セクハラなんてする相手の機嫌なんか損ねればいい。無理に付き合わなくっていい、媚びる必要なんかない」
サラリと言われた言葉に目を丸くする。そんなこと言っちゃっていいの、そりゃ未来の社長さんだとしても。
「え……でも今日、私が接待に行かされたのは、矢代さんの機嫌をとってこいという意味かと思いまして」
正直にそう言ってみると、天海さんは目を丸くしてこちらを見た。そして呆れたようにいう。
「誰かそんなこと言ったの?」
「い、いえ。そうかなと感じただけです」
「それは間違いだよ。新田さんは有能だからうちの部署に来てもらったわけだし、今日だって早く相手の顔を覚えたりしてもらいたかったから呼んだだけのこと。
君が女性だからだとか、外見がいいからだとかそういうことは一切関係なし」
キッパリ断言した彼を見て、なぜか恥ずかしくなって俯いた。
今まで裏でコソコソ言われてきた陰口を、彼が一刀両断してくれたように思えた。女だから、外見がいいから、そんなことは関係なく中身だよと言われた。
私が一番欲しかった言葉。
油断していた心臓が速まるのを感じた。同時に、自分を必死に止める。そんなのは無駄なことだ、こんな終わりが分かりきっている想いはいけない。抑え込まなくては。
そう自分に言い聞かせるも、ちらりと隣を見た時、真っ直ぐ前を向いている横顔があまりに凛として美しく、私は落ちた。
その日、私は恋をして、そして失恋した。
彼の婚約者と呼ばれる人のことを香苗に聞いてみると、藤田家の長女だということを聞いた。なるほど、同じ規模の会社の社長令嬢との結婚か。
SNSで藤田綾乃という人を調べてみるとすぐにヒットした。そこにある写真を見て、私は初めて絶望というものを思い知った。
あまりに綺麗な人だった。女の私から見てもうっとりするほど美しく、上品で、でも垣間見える意思の強そうな瞳が魅力的に思う。天海さんと並んでいる姿を想像するだけで、似合いすぎる二人だ。こんな出来すぎたカップル、そりゃみんな手を出す気にもなれない。
落ちていた心は更にドップリ落ちてしまった。
叶うわけない。
一人で散々泣きはらしたあと、この気持ちは秘めておこうと誓った。その代わり、仕事で誰よりも彼の役に立てるように頑張る。
外見だって手抜きしない、この藤田綾乃という人を目指して綺麗な女を追求する。
望みはなくても、もし万が一……二人の婚約がなくなるようなことがあったら、その時すぐ頑張れるように。私は微かな希望にかけて自分を磨いた。
だが、私のそんな希望は打ち砕かれた。
彼の下で働くようになって一年以上。私は仕事と自分磨きだけを必死にやってきた。仕事に関しては、天海さんからもそれなりの評価を得られている自信はあった。それだけで幸せといえば幸せだった。
しかしある日、ついに彼が結婚するという噂が会社中を走った。やはり相手は藤田綾乃という子供の頃からの婚約者で、式場なども決められて順調に話が進んでいるらしかった。
分かりきっていた絶望が再び私を襲った。
とっくの昔に失恋していたのに、今更嘆くなんて情けない。それでも、私は泣かずにはいられなかった。
「茉莉子ーー! 聞いた? 聞いた!?」
泣いて眠れぬ夜を過ごした翌日、早朝から香苗が鼻息を荒くして私に電話を掛けてきた。その大声に頭痛を覚えながら適当に返事をする。
「何が? もう、朝早く一体な」
「天海さんの結婚相手、当日に逃げたんだって!」
興奮した声とは逆に、私はただ全身が停止した。
友人の言う言葉が理解できなかった。逃げた、とは? 写真で見た藤田綾乃の顔が思い浮かぶ。
「……え、な、なに?」
「だから! 天海さんの婚約者、当日来なかったみたいなのよ!」
「え、じゃ、じゃあ」
電話を強く耳に押しあてて聞き返す。ということは、天海さんの結婚がなくなったということ。その知らせは、泣いて目を腫らしていた自分にとっては朗報だった。まだ彼を諦めずに済むかもしれないと。ただ、あれだけ素敵な人が当日花嫁に逃げられたなんて、彼の心中を考えると胸が痛むが。
「違うのよ茉莉子。
急遽妹の方と結婚したんだって」
その言葉は、喜びで舞い上がった私を地に落とした。
香苗の話はこうだった。結婚式に参加した人たちが、スタッフの慌てた様子に気づく。見れば、藤田綾乃という名前が書かれているものは回収され、代わりに司会者は藤田咲良、と名を呼んだ。
式は綾乃の方ではなく、咲良の方が現れた。
花嫁は緊張からかガチガチになっていて、見ている人たちみんなが気づくほどだった。恐らく両家のことを考え破談にできず、急遽妹と結婚する羽目になったらしい、という噂だった。
愕然とした。
お似合いだと思っていたカップルは片方が逃げ出し、当日全くの別人と結婚するだなんて。果たして天海さんはどう思ったんだろう、好きだった人に逃げられて、更にはその妹と結婚させられた。
……いや、わかっていた。
自分は嫉妬に狂っていた。
もし私がその場にいたなら、迷わず彼の隣に立候補した。自分の家が藤田家のような大きな家だったら、それができたんだろうか。これまでずっと頑張ってきたのは、好きな人のこんな結末を見るためじゃない。幸せそうにしてくれているならそれで諦めがついたのに。
生まれて初めて、心の中に黒い塊ができた。